昨夜もパンを食べながら辞書を開くと、そのページに「性格」とあった。
つまらないが、そのまま引用してみる。
【性格】ある人物の感情や意志の動きに表れる(特有の)傾向。
その下に、参考として、「先天的な素質である気質に後天的な影響が加わって形成される」とある。
学研国語大辞典。ちょっと面白いと思った。
言葉あそびになるだろう。ちょっとつまらなさも感じるけれど、遊んでみよう。
素質、それは素の質、不純物の混じりっけのない、素朴で、まっさらな、白い真綿のようなもの。
素質というと、才能、天賦のもの、と思っていた。(確かに何ものかがそれを与え、こちらはそれを授かったんだろうけれど)
でも、まわりがそれを認めて「才能」と呼ぶ前に、「素質」というものがあるのだろう。素の、質が。
また、この辞書によれば「素質=気質」とある。
気! これまた面白い。素質とは、気質であるというのである。
要するに、生まれもっての「質」というのは、ある。だが、その質に「外的な影響が加わって」、「性格」が形成される、と辞書は言う。
読んでいて僕はわくわくした。
気質。万物は、「気」が集まって形成される、と荘子は言っている。何もそれは人間に限らない。屋根の瓦、アスファルト、高層ビル、コンクリートにも、全くこの世にある万物は、「気の集合体」であるとしている。
人間も、その一部にすぎない。
ただし、人間は「ただそこにある」だけでは済まされない。「人間どうし」を意識する。自分を意識する。他人を意識する。そこから関係をしていく── 関係せざるを得ない。
つまり「性格」とは、内にもともとあった「素質」、そこにあるだけで済んでいたものが、そこにあるだけでは済まされず、外へ(引っ張り出されるように)出ざるを得ないもの、それを拒むことのできぬもの、拒んだら生きてゆけないという、「やむを得ず、致し方なく」形成されるもの、と考えていいだろう。
そして、そうして形成されたもの、「つくられた」性格というのは、まわりからしか見えない。なぜなら、それは本人がつくったものでなく、つくられたものであって、それをつくったものは「まわり」なのだ。
まわりからの影響を受け、性格は形成される、と辞書は言う。
影響を受けたものは、「素質」であろう。そして素質は、素質のままであることを許されない。
ああ! 「赤ん坊は完璧である」と老子は言った。赤ん坊は完全である。
素のままで、そのままで。
そしてそのままでは生きれない。
ここに人間の悲劇、喜劇がある?
どうせなら、愉しみたいものだ。
争うことなく。殺し合うことなど、なく。