明日モンテーニュのことを書こう、と考えながら、布団の中で、ふと思った。
ソクラテスは、何も難しいことは言っていない。
ただ正しく生きること、善く生きること、それを目的としただけである。
自分自身の魂に気をかけず、お金や名誉のことばかりに気をかけるな、と云いたかったのだ。
善き魂であれば、お金や名誉も善く扱われるだろう、と。
ずっと貧乏ではあったが、その意思を貫徹した人だった。
これが難しい、と、ひるむ必要はない、と私は自分に言い聞かせる。
ブッダにしてもソクラテスにしても、人間であったのだ。神でも仏でもない。
便宜上、シッダールタは「仏」と呼ばれているだけである。
ヘルマン・ヘッセが書いている通り、彼は人間的な人間であり、またリアリストだった。
また、私の身辺のこと、今まで生きて来たことを思った。
今日のニュースで、悪い事件も見た。
それで世界を知ったような気にもなり、自分はここにいるんだと考えた。
すると、この2500年前のふたりに対して、泣けてきた。
実際に泣きはしないが、涙が出そうになった。
多少ならずの、「今」への怒り、わからなさへの怒りのような衝動をもって。
人を殺める人は、自分が悪いことをしていることを知っているだろう。
お金を不正に儲ける人も、女性に嫌な思いをさせる人も、自分が悪いことをしていることを知っているだろう。
どうして、「悪」があるのか? なぜそれをするのか?
これが、ほんとうにわからない。
率直に、そのまま言えば、なぜ世界が善くならないのか?
ブッダの説いたことも、実に単純なことなのだ。
ソクラテスも、人ができないことを何一つ示していない。
どちらも、実践可能なことを伝えている。
2500年間、何をしてきた…
どうして不正が正当のように扱われる世界になった、と考え始めてしまった。
もちろん、答はこのふたりに関する伝記と、彼ら自身の言葉にある。
彼らの弟子たち、プラトン、クセノフォン、アーナンダらの色はついているにしても、人として思考できる、行為に移せる「善」がそこには確実にある。
にも関わらず、なぜ、それが行なわれてこなかったのだろう。