誰でも書けることを書こう。
犯罪は、人間が起こすもの。人間界にしか、犯罪というものは存在しない。
人間。狂気も正気も持ち、ものの弾みでその一方が表に出、すなわち周りから「狂っている」「狂っていない」と称せられるもの。
表に出るものは、周りからの触発によって。
が、表に出るということは、裏面── 内面に、すでに息づいていたものだ。それが、外に出る、出される、ということ。周り・他者(外)と個人・自己(内)の、何らかの接触によって。
孤独、── 一人で生まれ一人で死んでいく起結を見れば、人はみな孤独だ。また孤独であるという意識を持てば、その人は誰が何と言おうと孤独になれる。
この孤独が、犯罪に大きな貢献をしていると考える。
日常生活、道を聞かれることもなくなった。みんな、スマホが知らせてくれる。人との接触を避けるような病気も流行った。
スマホ、PCがあれば、たいていのことは知れる。人を介して、生身の人間を介してでなく、文字、写真、動画で、何やら知れた気になる。ヒマも、それで潰すことができる。
そんな時間は、結局孤独だ。まわりに人間がいたとしても、たいしたものではない。「人間がいちばん興味をもつもの── 自分自身」。その自分の世界に埋没できる環境が整った、素晴らしい世界が今だ。
銭湯なんか行けば、老人たちが簡単にコミュニケーションをしている。僕や、彼らからしたら「若い」人は、コミュ障に見える。知らない人と、面と向かい、話すことが、気安く、簡単にできない。ぼくの場合は性格的なものが大きいが、けっこうPCに向かう時間が多いので、それに拍車がかかっている。
ええい、こんなことを言いたいのではない。「想像力」のことを言いたかったのだ。
いくら孤独であろうと、コミュニケーションが苦手であろうと、それを賄って余りあるものが想像力だと言いたかったのだ。
こうすれば相手は痛がるだろう、こうすれば相手はつらいだろう、苦しいだろう。自分がそうされたら、そう感じるに違いない。
そんな想像力、たったのそんな想像力が。
コロナにしたってそうなのだ。医者が大変になる。看護師も大変になる。まわりの人、通りすがりの人が、苦しんでしまうかもしれない。そう考えたら、すれ違いざまに咳なんかできないし、なるべく感染させないようにする。できる限りのことをする。
それだけのことなのだ。結果、それでも流行するなら仕方ない。でも、自分のできることをすることには変わらない。
できることを、するだけ。それを続けるだけ。
その「できること」の拠点。その行為の拠点が、どこへ向かってのものか。「孤独」な者は、他者より自己に重きを置く。自己内の「できること」限定に、その拠点から自己内のみにベクトルが向く。他者の、「こうされたら」へ想像の足が向くことがない。
とことん、孤独になった人間が悪いことをする。自分のことしか、ほんとうに考えられなくなった人間が。
そして、しかし「自分のことしかほんとうには考えられない」が、人間の限界であるのだ。
が、それを超えて行けるものが、ぼくの希望的観測によれば、これも想像だが、ヒトが誰しも持ち得ている想像力、と思う。
「人に迷惑をかけるな」は、厳密には不可能だ。こちらにそんな気はなくても、相手が迷惑と感じれば迷惑なのだ。でも、あ、迷惑かな、と想像することはできる。そしてこちらの想像は、相手にもきっと伝わる──
やれやれ、なんとまとめようもない文章! もっと、まとめようもなくしてやろう。
犯罪は、人間界限定のもの。犯罪者だからといって他人事とすることこそ、想像力のない者だ。あなたにだって、狂気がある。正気もある。その点で、まったく同じ人間の所業なのだ。
異質、異端などといって人を見るな。あいつとオレは違う、そりゃそうだ。
でも、何も違わないのだ。
人を、自分を、不幸にさせるために想像力があるのではない。そのために、こんな力が、万人に、人間に備わっているのではない。