「~よりこっちの方がいい」。
このコーヒーより、あっちのコーヒーの方がいい。
ここより、あそこがいい。
このまま行けば、「死んだ方がいい、生きてるよりは」。
そんな物騒な発想に繋がっていく。源は、比較すること。
だがこの最後の例の場合、その「いい」を選んでしまった時、すべての比較対象が失われてしまう。
もう戻れない、とさえ思えず、後悔さえもできない。
死を選ぶこと、それは、すべての可能性も不可能性も失くすこと… それが「無」であるというのだろうか。
無も、一つのイメージだ。だが、ほんとに死んでしまっては…(肉体の死)、この「一つの」という見方さえできない。
「一つ」そのものになるのだろうか。すると、「無」と「一」は、まるで同じもののように見える。
「一つ」、そのものになってしまっては、自分がその「一」になるのだから(「一」の中に入っている(含まれている)のであるから)、その姿が見えない。外にいて、初めてその姿が見える。目にすることができる。
とすると、「くらべている」ものは何なのだろうか。
くらべる、その目を持つもの、比較する二つの目を持つものは、なにものなのだろうか。