しかし、考えてみるまでもなかったかもしれない。
私の「自我」──
「学校に行くべきだ」「行かなきゃいけない」
おとなになってからは、「働かなきゃいけない」「働くべきだ」
これは、頭で「せよ」と命じたものだ。
それを私は拒んだ。
私のダイモーン、私のダイモーンは、「するな」「やめろ」と言ってきた…?
おそらく、そうであろう。
ダイモーン、私のダイモーンは重大な事に及ぶ時、「声」を発したのだ。
「やめろ」と。
セックスの初体験(の可能性があった夜)もそうだった。妻とはできた。だが、その前にいた、二、三の女子とは、そういうことができなかった。もちろん健康な日本男児として、あそこは元気であった。だが、何か踏み切れないものがあった。
あれがダイモーンだったのかは怪しいが、登校拒否、出社拒否は明らかに「身体からの声」であったと言っていいだろう。
そういうことにしてしまおう。たぶん、これは当たっている。
ソクラテスは論理的な人間だったから、明確に彼自身の内部からその声を聞いたのだろう。言葉として。ハッキリと。明瞭に。
まだ、私のダイモーンは弱い。ずっと弱い。ん、弱いのかな。
これは、自己正当化でも構うまい。私は、きっと私のダイモーンに従ってきた…
これを、私のワガママと思うなら、そう思うがいい。その我儘、「我」について、私はずっと考えてきたのだ。それもせず、ただのワガママ、と糾弾する人間は、おのれの我についてもっと、よく考えてみるがいい。我とは何か?と。
我のままに生きるがいいんだよ。
そしてその我を、この自己は知らない。ただその我に、おのずと、自然に引っ張られて行く。自己は、我によって導かれて行く。
頭は、身体の一部のくせに、出しゃばり過ぎたね。出しゃばり過ぎだよ。