そう、人としての正しい生き方…
それはこっち側にない、こっちはそれを判断するだけで。
人としての正しい生き方。
嘘と真の判別、虚と実の判断。
こっち側には悪しきものもある… 嫉妬、うらみ、憎しみ、優越感、劣等感…
それらはからっぽのこっち側に入ったものにすぎない。
もともとは、なかったものだ。
考えてみりゃ、うまれた時はからっぽだったさ
親、きょうだい、保育士、教師、おとな、社会…
慣習、常識、学問、教科書、正解、不正解、
からっぽの《私》はそれらに埋め込まれ。
そして出来上がった《私》。
《私》なんてなかった、
ずっと《私》は《私》に入ってきたものの、模倣、追従、複写、複製で。
そう《私》が今判断する。
《私》は判別する、よく見つめ、嘘か真か、正しいか間違いか。
《私》はそれを見つめることができる。
《私》のすぐ横に、言ってしまえば「人として正しく生きる道」がある。
それを《私》は知っている。知っている? あることがわかっている… わかっている? 知るとか理解するとか、どんな言葉もそぐわない。
《私》はそれにしたがって行動する、行為する。つまり、生きる…
それに沿って。添って。
こどもの頃は、ただ入って来るものに従うだけだった。
今は、入って来たもの、入って来ようとするもの、入っているもの、それらの判断ができる。取捨選択が。
あれは間違い、これは正しい…それはよく見つめることから始まって。
《私》の中にないものだから、見つめることができて。
すると、よく見えてくる… この世のものが、いろんなものが絡み合って、ひとつひとつ、織物のように繊細に重なって、精緻で精密な、としか言いようがないものがあることが。
それに身を任せて…《私》はそれに身を任せようと思う、こっちじゃない、あっち… すぐ横にある…
生まれ、生き、死にを繰り返す、この世と呼ばれる場所から
還ってく、だれでもない《私》が、どこでもないところへ
それまでは、このすぐ横にある道に《私》を添わせていただこう
すぐ横にある、
「ほんとうの人として生きる道」とか
運命とか自然とか… 真理とか… まことのことわり、
それに添って。喜んで従って。