二十歳の頃は、自分の葬式にこのモーツァルトをかけてほしいな、と想っていた。
今はそんなこと想わない、だって死んだ自分はもう聴けないのだから。
ただその葬式なんかがやられたとして、この曲を知れるきっかけになってくれればな、とは思う。
でも自分の死は、誰にも知られたくないな、できれば。
猫みたいに、どこへ行ったか解らぬまま、知らず知らずのうちに、あ、あの人もう死んだんだな、と。
行方不明、想像の死、で充分だ。
それも、いつその時が来るか解らぬ。こっちで操作できるものではない。
それはそうと、また呼吸の話でも。
添う、ことについて昨日か一昨日書いた。そう、添うことしかできない、「しか」ではなく、「が」だ、添うことができるということ。
《私》というものがないことも書いた、《私》は《私》のすぐ横(に感じられる)にある、「ほんとうの人間の生き方、人として生まれてきたものとして、人として生きるほんとうの生き方」を。
《私》は、そのほんとう、真実とか真理とか、真っていう文字で形容されるところの、それは私のものでない、私が添うことしかできない、添うことができる、そのものの、添え木みたいにしか生きることができない、生きることができる、ということ。そしてちゃんと死ぬこと、それで充分、充分すぎるということ。
呼吸を見つめていると、《私》はそれに添うこと、添えることを嬉しく感じる。ありがたいと思う。
「私は無い」。これはほんとうだ。でもこのほんとうは、「無い私」についてのほんとうで、とんでもない、小さな、無いに等しいものだ。
どうしても言えば大袈裟になるが、真実とか真理、ほんとうに生きる、人間としてほんとうに生きる、というもの、その道の前では、《私》なんてもう、土の中の微生物にもならない。
私にできることは、この世界に添うこと、人の生きるほんとうの道、というと、また大袈裟になるが、その道に添うこと。
そう《私》が判断できる。「この世界」は、私の判断するほんとうの道で。
シッダールタの言っていた意味も、老荘の思想も、実感できる。この実感、体感体験、これを《私》はほんとうとする。
この世界が、ほんとうに緻密、微妙微細、こまかな、こまかなもので出来ていることが鮮明になる。うわべの言葉でなく、美しい、と言える…
僧侶たちについて思うことが多々。なぜ彼らは集団でなくてはならなかったのか?
ひとりでしかできないことだ、ひとりが、感じる、観ずる、体感する、体験することだ。修行にしても何にしても、生と死にしても。
なぜ仲間をつくり、つるんでいたのか。単純な疑問だ。答は、もうわかっている気もするが。