誰もが自分の世界に生きている。
この世はいつか終わるとしても、その世を見るのは、私の世界からであり、その世界が終われば、この世も終わるということになる。
何の因果か、この世に身体を与えられ、その中にこの魂が宿り、まるで私が私としてあるかのようだ。
その私は、私の何を知っているだろう。
名前も、地位も、年齢も、表象のもので、それは私ではない。
一部のようではあるけれども、たまごの殻の表面のようなもので、それは外見にすぎない。
私はその中にいる雛のようなものである。誰がこの雛を見るだろう。まして、殻の中にいるものが、どうして自分の姿を知れるだろう。
殻の中から、外は見えない。外からも、中が見えない。
多くの人が、このようにして「人間関係」をつくっているように見える。
「自分の世界」とは、この殻の中である。誰もが「外」との一線を画し、この殻の中に自己の世界をもつ。
ただ、多くの人は、外界との折り合いをつけるため、そこから器用に足を出し、手を出し口を出す。そしてこの社会に生きているのだと信じている。
この身体ひとつにしたって、腹が減り、喉が乾く。そして何か飲食する。胃や腸、その他の内臓、血の巡り、それらの働きがある。
なぜそれらはそのように働くのか。なぜ私たちは、それらによって生かされているのか?
人を好きになったり、嫌いになったりして、自分の好悪の情に振り回される。ああだのこうだの、思考を凝らす。
一体何がそうさせているのか? わかったものではない。
見えないものに動かされている、それが存在の実情である。
それなのに、見えるものばかりに固執して、まるでそれがホントウであると思っている。
このようにして生きることが、生きることであるとするならば、私はほんとうに生きているのか、生きていないのか、分かったものではない。
分かりもしないことを、分かったふりして生きるのが、生きるということであるならば、それも殻の中の想像を越えるものではない。
せいぜい、この幻想のような世界を愛しんで、快く遊ぶがいい、と私は自分に言おう。
もしかしたら、何かの弾みに、殻が割れて…社会と私が偶然の一致を見る時があるかもしれない。
そして何が殻を割ったのか、知る術もない。
だのに、一体何をいがみ合っているのだろう?