「荘子」に、「琴の音が最も美しく奏でられるのは、その音を出さない時だ」というのがある。
実際、始皇帝だか誰だかは、弦のない琴を前にして、その無音の音を楽しんだという。
無弦=無限の音。音が奏でられた時、無限の音は、それだけの音になってしまう。
無限の音は、奏でられた時点で、有限になってしまう。
どんな名演奏家も、無音の音には及ばない。
荘子は、言葉について、ずいぶん嘆いていた。
1といえば2が生まれる。無といえば有が生まれる。
これは無限だ、と言おうとすれば、言い表される言葉によって有限になってしまう。
相対を必要とせず、それがそれ自身としてあること。それが真の理である。
それなのに、人は、こいつより自分が秀でているとか、自分よりあいつが劣っているとか、有限の優劣をつけることばかりに躍起になっている。
愚かとというより、哀れではないか──