どうでもいいことを、どうでもいいように書く

「不倫」という言葉がある。
 何を言っている言葉なのか、ぼくには皆目見当もつかない。
 いや、おおよその見当はつく。
「それをしちゃ、ダメ」ということだろうか、というふうに。
 しかし、不倫がある以上、倫理も、あってほしいと思うのである。

 何が「倫理」か。
 おそらく、物事の正しさ、そうあるべき道筋、という意味であろうと想像する。
 では、何が物事の正しさで、何がそうあるべき道筋であるということか?

 そんなもん、「無い」のである。残念ながら、無いのだ。

 電車の中で、座っている若者の前に老人が立ったとしよう、それをあなたは見ていたとしよう。あなたは「席を譲ればいいのに」と思ったとしよう。
 だが、若者は、寝たふりをする。
 だが、あなたは若者に、「席、譲れ」と言えない。その道に入ってそうな若者だったからである。わざわざ決死の覚悟を、あなたはもつことができない。

「不倫」の定義を、「浮気」と定義づけよう。
 あなたは、あるブログで「浮気をしている私」の記事を見たとしよう。
 あなたは、「浮気はいけない」と思ったとしよう。
 だが、その記事が、ほんとに浮気相手を好きになり、しかしダンナのこともいとおしく感じ、そのくるしみから、自分の心の奥底から、吐き出された言葉のブログであったとしよう。

 インターネットは便利なものである。適当なこと言って、さっさと立ち去れる。
 みんな、傍観者であることができる。ぼくは、実は、そういうのは好きでない。まぁそれは置いておく。

 それでもあなたが「倫理」を重んじ、ウワキを許せないとするなら、ぼくは、そのあなたのことを知りたい。あなたの重んじているものは何なのか、許せないのは、何故なのか。

 ぼくは、そのくるしみを、言葉に吐き出さざるをえなかったようなブログの書き主を、愛しくおもうだろう。
 それは、自分のために、吐き出された言葉であるから。そこにぼくは、ホントウのものを見るおもいがするからだ。

 多勢に無勢が「倫理」と「不倫」の本質であるならば、不倫をとがめる者の論理は、惰弱すぎてあほらしい。
 個、なのだ。個で生まれ、個で死んで行くのだ。ひとりひとりが、基本なのだ。
 借り物ではない、ひとりひとりの中にあるホントウのこと、それを、ぼくは、重んじることができるだけ、重んじていきたいのだ。
 そこには、十把一絡げに「倫理ヲ重ンジヨ」などと、言える余地など、ないはずなのである。