セックスのこと

 私はがセックスという言葉を知ったのは、中学の時だったと思う。確か友達と話していて、この単語を初めて聞いたのだ。
 その意味を問うたところ、彼はハッキリ言わなかったが、(セックスの行為をハッキリ説明するのは難しいことだったと思う、中学生で)なんとなく私はわかったような気になった。

 そして私がその時抱いたのは、嫌悪感であった。
 不潔なように思えたのである。

 だがもちろん私は歳をとり、結婚をしセックスをし(順番は逆だったけど)離婚したりして何だかんだノウノウと生きているのだが、現在は全くセックスレスである。一緒に暮らしはじめて3年が経ったが、もう1年半くらい、していない。

 男としては、つらい、とかいう意見もあるけれども、私は「男」である前に、「かめ」なのである。
 男だとか女だとか、それは事実としてあるけれども、私はべつに男を振りかざして生きているわけではない。私という個のほうが、大きいのである。

 で、私という個が、彼女という個を見る。そして考える。
 彼女の言葉を基軸に。「私は理性があるから、そんなことしない。」「若い頃から遊んで、経験を積んでいないと、ダメみたい。」

 セックスをしている時、私自身、不安になる時があった。一瞬、自分は、単なる性欲の対象として、その行為をしているのではないか、という不安がよぎる時があるのだ。
 私のその不安を、彼女に感じさせたかどうかは分からない。でも私は彼女の反応に重点をおいて、その行為をしていたつもりである。

 さて、以下は私の想像でしかない。だが、この想像によって、私はセックスなしの生活を営んでいる。

 彼女は、セックスを、気持ちいいと思う。でも、その快楽に流されたくない。(ましてうちには猫がいるから、そんな肢体を猫に見られたくない)
 だから理性をもって、動物的な行為をしたがる自分にフタをする。(私が中学の時に感じた、セックスに対する嫌悪感を思い出したりする)

 現実問題としては、私のが大きいわけではなく、彼女の準備ができていても、挿入する時、痛いようなのだ。
 痛い思いは、させたくない。だから、指で、が多かった。私も、相手が気持ちよくなってくれれば、自分も気持ちよくなれる。

 だが、もちろん最終的な性欲は残るので、そういうときは街に出て、そういうために用意された店に行ったりする。

 だが、それでも私は彼女を愛しているようであり、彼女も私を愛しているのかどうかは、わからない。
 そして彼女に、私よりイイ人ができたとする。私はそれを受け止めたいと思う。カッコづけではない。

 一生のうちで、たとえば結婚をして、浮気が原因で別れる、という話をよく耳にする。
 だが、それは、狭隘な心ではないか。
 自分にほんとうに魅力があれば、その人は離れていかないはずだ。
 自分を見つめ直すいい機会である。

 私が云いたいのは、関係は、ふたりでつくるもの、ということだ。
 夫婦はこうあれ、だとか、男はどうの女はどうのという前に、個人と個人、ひとりとひとりが、そのふたりにしかできないような関係を、つくっていくということだ。

 だからわざわざこんなことを開示しなくても、いいのであるが、このウェブブロブの「夫婦」のテーマで、セックスレスに関することを興味深く読ませていただいたので、自分の性生活について、考えてみたくなった次第である。

 愛情表現は、セックスだけではない。相手を見て、自分を見て、そこから始まっていく愛の生活の手段は、いっぱいあるはずなのである。

(2005年頃、記)