ほんとうに愛することはできない

 … これが、椎名麟三から得た、ひとつの答えらしきものである。
 それは、うすうす感じてはいた。

 中学の時の初恋、おたがいに恋人どうしになった意味での初恋、それは2年で終わったのだが、終わる前に、バイト先で一緒に仕事をしていたOさんに、惹かれていた自分もいたからだった。

 そしてたまたま、当時の恋人と、そのOさんは、同じ高校に通う、しかもクラスメイトだったのである。

 ぼくはOさんと、デートとは呼べないまでも(おそらくOさんはぼくをそういう対象にしていなかったと思う)、ふたりで喫茶店なんかには入ったことがあると記憶している。

 もちろん、この「二股」をかけようとしていた、いや、かけていた、ぼくというのが、同一人物であることが、恋人とOさんの友達関係から判明されたのだった。

 ぼくは、「どういうつもりなのか」と、恋人とOさんのふたりから呼び出され、3人でまた喫茶店なんかに入ったことは確かに記憶している。

 しかし、ぼくは、とことん脳天気だったのである。
 好きなふたりに囲まれて、無情と思われることを覚悟に書けば、正直な気持ちとして喜んでいたのだった。

 … こんな自分を、正当化するために、戦後文学の椎名麟三を持ち出しているのではない。
 こんな自分が、「愛」という文字を使うのもおこがましいが、椎名麟三の、

「人が、人を、ほんとうに愛することができるか」

 ということについての、実験の仕方があるのである。

「ひとりの部屋で、自分に、こう問うてみればよい。
『私が、彼(彼女)を愛している。
 私は、彼(彼女)を愛しているのは事実である。
 しかし、ほんとうに、愛しているのだろうか。
 ほんとうに。ほんとうに、ほんとうに、愛しているのだろうか。』
 と、3回ぐらい、『ほんとうに』を愛の前に付けて、問うてごらんなさい」

 というのだ。(ぼくの場合、3回では足りず、4、5回になっているが)

「すると、ほんとうのほんとうには、愛していない気がしてくるだろう」というのだった。

 その愛の対象は、夫(妻)であれ恋人であれ愛人であれ、さらには自分の子どもであれ、「ほんとうのほんとうには愛していないのではないか」という気になるだろう、ということなのであった。

 もちろん、「ほんとう」というものには、死に通ずるものがあり(死は、生において唯一絶対のものであり、「ほんとう」というものには、この絶対性がつきまとってしまうという意味で)、この「ほんとう」というものをこそ、いわば疑る、考えてみなければどうしようもない、窮極的な問題である、ということであると思う。

 そしてもちろん、椎名麟三は、「だからといって、何も絶望的になることも、悲観することもない」と云っている。

 ほんとうのほんとうには愛し得ないのだということ、その、ほんとうのほんとうには愛し得ないとさせているものと、たたかっていくこと。
 それが、生きる、ほんとうに生きる、ということへ繋がっていくだろう、というのが、ぼくの解釈である。

 立川談志は、「『 つもり 』にならないと、やってられないだろう」というようなことを言っていた。

 この「愛」に当てはめれば、「愛しているつもり」あるいは「愛されているつもり」にならないと、やってられないだろう、ということになる。

 そしてそれは、たしかにそうだろう、と思える。

 椎名麟三は、その「つもり」を、「ほんとうのほんとうか」という自問することで、しかし「ほんとうでない」からといって、絶望しなさんな、悲観しなさんな、と云っているように思う。

 その「つもり」になる自分自身を、ゆるめてあげなさい、そして、たたかいなさい、また、ゆるめてあげなさい、また、たたかいなさい、と云っているように思えてならない。

 とにかくぼくに関していえば、愛している人がいることは事実である。
 しかし、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうのほんとうのところで、ほんとうに愛しているのかといえば、心細くなってしまうということなのだった。