(3)愛するということ

 恋、というのには一途なイメージがある。
 愛、というのは、「許す」という感じ。
 私の思い込みである。
 そう思い込んでいた私に、それはオレひとりではなかった、と都合のいい自信をつかせる、脚本家の大石静のインタビュー記事を読んだ。

 自分と同じような考えをもつ人を知ることは、嬉しい。ましてその考えが、世間から、まっとうでない、と見られてしまうような考えであればあるほど、その喜びは倍加する。
 そのインタビュー記事によると、「夫が、私以外の女の子を好きになっても、おお、がんばってね、という感じ。」

 実際に夫君は、妻である大石静以外の女とふたりで旅行などをしたりするらしい。
「でも私も、仕事柄いろいろな異性と出会うので、恋をします。」
 寝室も別で、生活のサイクルもまったく違うので、「何のために一緒にいるのか分からない(笑)」という。

 でも、冷めている、というわけではない。
「夫をとても愛しています」と言い切っている。
「夫婦だから、結婚しているのだから、という問題と、人が異性に抱くセクシィな気持ちは別問題でしょ」
 そして大石静は、夫君に愛されている、と感じている。

 これが愛だ、と記事を読んだ私は感じている。
 愛=許す、というのは、相手の「浮気」行為を許すのではなく、嫉妬という感情をもつ自分自身に対してやることだ。
 私も、恋人には、どんどん浮気して欲しい、と本気で思っている。
 言葉にすると、愛だの浮気だのと俗っぽい言葉になるけれども、要は、自分に正直であってほしい、ということである。

 素敵な男の子と出会えたのならば、ああ素敵だなとそのまま感じて、まっすぐ恋をすればいい。
 相当のショックを受けながらも、私はその衝撃を自分の中でどうにか処理しようと、最初のうちは悶々とするだろう。
 そして悶々とするのに慣れた頃、
「ヨシ、ガンバッテくれ」
 となる自分が、目に見える。家事も、はりきってやってしまいそうである。

 恋人とその愛人と私の子どもの4人で仲良く、食事でもできたらいいなと思う。同じ異性を好きになった者どうし、会話も弾むはずである。

 幸福、というと、なんとなく結婚とか家庭とかをイメージする人が多いような気がするが、それは誤解であると思う。
 しょせんは、個人なのである。個人の幸福を度外視して、家庭に幸福を求めるのには、ムリがある。

「私には恋人がいるから」
 と、せっかく好きになってくれた異性の気持ちを、かたくなに拒んでしまうのは、いけない。
 その異性とつきあうことで、恋人の良さを再認識できるかもしれないし、そのままのめりこんで別れに発展するかもしれない。

 恋人は恋人で、ホレやっぱりオレがいいだろうと自己満足に拍車がかかるかもしれないし、やっぱりオレではダメだったかと己の行ないを悔い改めるかもしれない。
 いずれにしても、物語ができる。家庭から繰り広げられる物語ではなく、個人ひとりひとりからなる物語である。

 そして、個人が幸福になればいい。
 それは自分に正直であることから始まり、自分を何かから許してやることに尽きる気がする。
 何かとは、古い倫理観であったり、単純な嫉妬であったり、人に運命の共同を求める幻想だったりするだろう。

 それらをもつのは、ぜんぶ自分自身なのである。自分のしょった荷物は、相手に強制しないで、自分でうまくしょっていきたい。
 浮気をする恋人を見ていたい。恋人が浮気するのを見る自分自身を見ていたい。

〈老女を殺そうが、少女を姦淫しようが、それを自由だとほんとうに思っている人は、そういうことをしないだろう〉ドストエフスキーは云った。

 自由であると思うこと自体、すでにそうとうの不自由さを内包している。
 何をやってもいいんだ=自由、との思いにとらわれている以上、何もできない。自由とは、自分がなにものにもとらわれていないことである。

 自由になりたいと思う私に対して、自分がしてやれることは、私が私であり続けることくらいしかできず、それだけでかなり精一杯である。

 何がいいたかったのか。
 愛とは。愛するということは。
 それは、さしあたって、自分を苦しめることをやめるところから、はじまっていくかのようである。