初めての恋人は、14歳。2度目は、16歳。19、30、40辺りでも。
初めてのことは、何でも新鮮だ。恋は、特に。
それまで、ロックやらフォークやら、いろんな音楽を聴いていた。
それらの歌の中に、必ずといっていいほど出てくる「恋」というもの。
そこから芽生えた恋への憧れは、誰かを恋をしたい動機の役割をこなした。
憧憬を苗床に、恋の花が咲き、幸福な季節が訪れた。
恋も2度目になると、いくぶん技巧的になった。
それほど熱狂的でもなくなり、一途さ・懸命さも、以前より薄い。妙な余裕、自分を客観視する目がどこかにうまれ、それが技巧をもたらし、足を生やして走りださせた。
初恋の時も、よく走ったには違いないが、その足を意識する目より、熱烈の波のほうがはるかに上回った。
2度目のそれも、恋をしているのに違いなく、ハッピーなのだと思おうとして、実際、まだそう思える時期ではあった。
3度目になると、そろそろ自分に合う相手、合わぬ相手の見極めがついた。
自分というものが、おぼろげにもチャンと見えはじめるのと同時進行して、自分に合う・見合わない人も分かってきた気になった。
そして恋の対象としてある人に分別をつけ、つきあってみなければ分からないにも関わらず、自分の気質と呼べる部分を過剰にクローズアップし、それを基盤に、合う相手をさがし、もとめるようになった。
4度目以降になると、そのままの自分のサイズに合った異性を探し出した。
もう、高望みもしなくなって、地に着いた足を見つめるようになった。
見た目より内面を軽んじず、自分の内面を直視する眼をもてば、人の内面にも、見る眼が育つというもの。
そうして、自分はこうだ・こうであろう、相手はこうだ・こうであろう、という想像に現実的な足をつけ、ひとりでふたりを見つめていく段階に入った。
私の場合、誰かを恋した時、常にひとりで、自分の中で延々とひとり作業を繰り返してきたようだ。
結婚をしても、その基本は変わらなかった。