男はペニスを持ち、女はそれを受け入れるヴァギナを持っている。
それは事実であり、現実である。
ぼくも二十歳前くらいの頃、男社会ができあがってしまったのは、セックスの行為中に、その正常位という体位が、女が下で男が上であるという、そのありふれすぎた日常に起因するのではないか、と本気で考えてしまったことがある。
だが、日常をつくりだすものが、おのおのの性さがであり、それと社会的な形は、しかし、無関係とは言えなくもないと思っている。
頭で考えるより、体や心に感じるもののほうが、ホントウのものに近いような気がしてしまう。
で、ぼくは分からないのである。
男であるぼくは、射精すれば、ひとつ終わりなのである。
だが、女である人は、どこまでが、男でいうところの射精であるのか、ぼくには見当もつかない。宇宙の世界である。
だが、ぼくが女の人に感じる魅力は、そんなものではないのである。
女であるという、性はあるにしても、否、性があるからこそ、せめて心情的に、男的な女の人が、嗜好であるようなのだ。
性も女、心情的にも女、では、ぼくは取りつく島が無いというか、何も共有するものを持たない、大海原にポツンと浮かぶ、離れ小島のような自分に途方に暮れてしまうような気がするのである。
女/男という名詞、区分けも、不思議である。
フランス語には、モノに対し、女性名詞、男性名詞、とさえ区分されている。 firme (会社、商店) は女性名詞、 etiquetage (札を貼ること) は男性名詞、という具合に。
何ゆえ、これが「男性」名詞で、これが「女性」名詞であるのか、その起源を知る由もないが、モノ自体に「男性」「女性」があることが面白いと思うし、また、勉強していた時、なんとなく、「あ、これは女性名詞だな」とか分かったりしたものだった。
ほとんど感覚的だったような気もする。よくわからない。かなり忘れている。
だが、やっぱり女と男は違うのだ。
違っているからこそ、そこに共感できるものがあったりすると、とても嬉しくなるのである。ぼくの場合。
共感もクソもミソもなく、ただ「女だ!」ってだけで、本気で好きになれたり愛せたりできたら、人生、ハッピーだろうなぁと思う。
だが、残念なことに、そういう同性を、自分を含めて、ぼくは見知ったことがないのである。
… 眠い眠い。
もぉ寝よう。
「心だけ愛する」「体だけ愛する」
うーん。