ここで、筆者(かめ)ははたと困った。
福の生活は、食べる・寝るの繰り返し以外に、なかったからだ。何を書くことができるだろう?
私は福を甘やかし続け、家人は福とのテリトリィを明確に守りながら、とにかく一緒に暮ら続け──
きついことを書くことになる。
ほんとうに突然やってきた、その朝のことだ。
その日、私は有給休暇をとっていた。
福は、パソコンでヤフーニュースを見ている私の後ろの椅子の上に、丸くなって寝ていた。
不意に福は、ドスンと飛び降りると、テーブルの下へ這って行った。
何か虫でも見つけたのかなと思い、私はまた画面へ向いた。だが、その挙動がおかしいのが、視界の隅に入ってきた。
ぎこちなく、かたい動きで腹這いになって、窓の方へ向かっている。
「福?」テーブルの下にかがみ込んで、私が呼ぶと、福は私の方へ戻ってこようとした。
だが、途中で、にゃああと苦しそうな声をあげ、動かなくなってしまった。
私は驚いて、「福、福」と呼んだ。
福は眼を開けたまま、動かない。
私は、咄嗟に、「あの世に行きそうなものは、名前を呼ぶとかえって来る」という話を思い出し、その耳に向かって「福!福!」と呼んだ。
やはり動かない。名前じゃダメかと思い、「ご飯!ご飯!」と耳元に叫んだ。だが、動かない。
私は、ひざまずいて福を抱っこした。福は力なく頭をたれた。
「福、おい、ちょっと、おい、これはないだろう、おい」
これは冗談だと思った。
今は死んだふりをしているが、何もなかったようにまた動きだすんじゃないかと思った。
だが、いつまで経っても福は動かなかった。
福を膝の上に抱きながら、頭を撫で身体を撫で、開いたままだった眼をゆっくり閉じさせた。
それから、福が大好きだった座椅子に、福を置いた。
私は、うろうろした。何をしていたらいいのか、何をするべきなのか、全く分からなかった。
インターネットで、「猫の葬儀費用」や「近隣のペット霊園」を見た。
だがそれも、今するべきことではないように思えた。家人に知らせたかったが、彼女は今友達と会っている。たぶん楽しんでいるだろう。知らせるのは、はばかられた。
「福」の名前の由来になった、「吉」の飼い主、十年来の友達にメールをした。
すぐに返信がきた。
── 福ちゃん、亡くなりましたか。でも福ちゃん、飼い主孝行だね。そんな苦しまないで亡くなるなんて、奇跡だよ。
うちの吉は白血病だったから、ずっと苦しんでいる姿を見るのはつらかった。
これから淋しくなると思うけど、福ちゃんと一緒に過ごせた日々を感謝しましょう。
相田君、連絡ありがとう。
読んでいたら、福が死んだことを、初めて私は知った気がした。涙が溢れて、止まらなくなった。
それから私は、福の頭を撫でたり、身体を撫でたりした。お皿に新しいご飯を注ぎ、水を取り替え、眠っている福の前に置いた。
うろうろしては福を撫で、うろうろしては福を撫で、をくり返した。
やっと家人に連絡をしたのは、夕方近くになってからだ。私は詳しく、福の最後の様子をメールに打った。
「冗談じゃないよね?」と返信がきた。
そうだ、今朝、福はまったく、いつものようにここにいて、出掛ける彼女を、私と一緒に玄関から見送っていたのだ。
座椅子に横たわっている福のお尻から、透明な液体が、ひとしずく垂れかかっていた。それをウェットティッシュで拭いた。また、新しいウェットティッシュで、少しだけ付いていた目ヤニを取った。
ありがとうね、福。今までありがとうね。
また遊ぼうね。また会おうね。また一緒に遊ぼうね。
繰り返し繰り返し、私は福に言っていた。
家人が帰って来た。
福を見て、「寝てるみたい…」と言いながら、鼻水をすすった。そして、その動かない頭を撫でた。
翌朝、私は庭に、スコップで1メートルほどの深い穴を掘った。
福を、座椅子からダンボールに移す。このダンボールは、家人が作った四角いお盆の形をしたダンボールだ。ほぼ平らで、申し訳ていどに四方にヘリがある。そのへりに顔をあずけて、福は寝ることも大好きだった。
福を抱えて持って行く。また泣けてきた。家人も、鼻水をすすった。私は穴に入り、彼女から福をダンボールごと手渡してもらう。下に置き、私は穴を出た。
それから、土を被せていった。