(19)朝

 ここで、筆者(かめ)ははたと困った。
 福の生活は、食べる・寝るの繰り返し以外に、なかったからだ。何を書くことができるだろう?

 私は福を甘やかし続け、家人は福とのテリトリィを明確に守りながら、とにかく一緒に暮ら続け──
 きついことを書くことになる。
 ほんとうに突然やってきた、その朝のことだ。

 その日、私は有給休暇をとっていた。
 福は、パソコンでヤフーニュースを見ている私の後ろの椅子の上に、丸くなって寝ていた。

 不意に福は、ドスンと飛び降りると、テーブルの下へ這って行った。
 何か虫でも見つけたのかなと思い、私はまた画面へ向いた。だが、その挙動がおかしいのが、視界の隅に入ってきた。
 ぎこちなく、かたい動きで腹這いになって、窓の方へ向かっている。

「福?」テーブルの下にかがみ込んで、私が呼ぶと、福は私の方へ戻ってこようとした。
 だが、途中で、にゃああと苦しそうな声をあげ、動かなくなってしまった。
 私は驚いて、「福、福」と呼んだ。
 福は眼を開けたまま、動かない。

 私は、咄嗟に、「あの世に行きそうなものは、名前を呼ぶとかえって来る」という話を思い出し、その耳に向かって「福!福!」と呼んだ。
 やはり動かない。名前じゃダメかと思い、「ご飯!ご飯!」と耳元に叫んだ。だが、動かない。
 私は、ひざまずいて福を抱っこした。福は力なく頭をたれた。

「福、おい、ちょっと、おい、これはないだろう、おい」
 これは冗談だと思った。
 今は死んだふりをしているが、何もなかったようにまた動きだすんじゃないかと思った。
 だが、いつまで経っても福は動かなかった。

 福を膝の上に抱きながら、頭を撫で身体を撫で、開いたままだった眼をゆっくり閉じさせた。

 それから、福が大好きだった座椅子に、福を置いた。
 私は、うろうろした。何をしていたらいいのか、何をするべきなのか、全く分からなかった。

 インターネットで、「猫の葬儀費用」や「近隣のペット霊園」を見た。
 だがそれも、今するべきことではないように思えた。家人に知らせたかったが、彼女は今友達と会っている。たぶん楽しんでいるだろう。知らせるのは、はばかられた。

「福」の名前の由来になった、「吉」の飼い主、十年来の友達にメールをした。
 すぐに返信がきた。
 ── 福ちゃん、亡くなりましたか。でも福ちゃん、飼い主孝行だね。そんな苦しまないで亡くなるなんて、奇跡だよ。
 うちの吉は白血病だったから、ずっと苦しんでいる姿を見るのはつらかった。
 これから淋しくなると思うけど、福ちゃんと一緒に過ごせた日々を感謝しましょう。
 相田君、連絡ありがとう。

 読んでいたら、福が死んだことを、初めて私は知った気がした。涙が溢れて、止まらなくなった。

 それから私は、福の頭を撫でたり、身体を撫でたりした。お皿に新しいご飯を注ぎ、水を取り替え、眠っている福の前に置いた。
 うろうろしては福を撫で、うろうろしては福を撫で、をくり返した。

 やっと家人に連絡をしたのは、夕方近くになってからだ。私は詳しく、福の最後の様子をメールに打った。
「冗談じゃないよね?」と返信がきた。
 そうだ、今朝、福はまったく、いつものようにここにいて、出掛ける彼女を、私と一緒に玄関から見送っていたのだ。

 座椅子に横たわっている福のお尻から、透明な液体が、ひとしずく垂れかかっていた。それをウェットティッシュで拭いた。また、新しいウェットティッシュで、少しだけ付いていた目ヤニを取った。

 ありがとうね、福。今までありがとうね。
 また遊ぼうね。また会おうね。また一緒に遊ぼうね。
 繰り返し繰り返し、私は福に言っていた。

 家人が帰って来た。
 福を見て、「寝てるみたい…」と言いながら、鼻水をすすった。そして、その動かない頭を撫でた。

 翌朝、私は庭に、スコップで1メートルほどの深い穴を掘った。
 福を、座椅子からダンボールに移す。このダンボールは、家人が作った四角いお盆の形をしたダンボールだ。ほぼ平らで、申し訳ていどに四方にヘリ・・がある。そのへりに顔をあずけて、福は寝ることも大好きだった。

 福を抱えて持って行く。また泣けてきた。家人も、鼻水をすすった。私は穴に入り、彼女から福をダンボールごと手渡してもらう。下に置き、私は穴を出た。
 それから、土を被せていった。