(6)身体から離れていったもの

 その日も2万、3万と失って、僕は商店街を歩き、国道沿いにある高層マンションの10階辺りにいた。
 とりあえず、死ぬつもりだった。

 アルバイトで稼ぎを続けるのは心細い。といって、社畜になんかなりたくない。
 だからって、パチンコ屋にばかり入り浸る、空っぽみたいな自分を、そこから飛び下ろしたい、と考えた。

 3万円負けたことは、自殺の理由に、ちょうどよかった。自分は、3万円のために死ぬのだ。
 3万の生命なのだと思うと、贅沢なような気もしたが、滑稽だった。この滑稽さが気に入っていた。

 自殺する人間に、明確な理由があるだろうか、そもそも。
 僕の場合、パチンコでこんなことになる以前から、自殺を想うときがあった。集団生活に馴染めなかった、中学、高校の頃だ。

 こんな自分は、どうやって生きて行けるのだろう→ 生きて行けまい。この自動的な公式が、僕の中に既にあった。
 自分に自信がない。自信がないから、不安になる。不安になるから、未来への希望もなくなった。

 僕は、こんな自分のまま大人になった。
 結婚して、ある日僕は、家の引き出しから生活費の1万円を盗んで、パチンコ屋へ行った。
 1万円など、当たればすぐに返せると思ったからだ。

 午後2時からの新装開店の日で、どんなに期待に胸を膨らませて台に座ったことだろう!
 そして財布が空になれば、なんと悲惨な気持ちで店を出たことだろう!

 とぼとぼ商店街を歩いていると、知らない男が「タバコ、買ってくれないか」とセブンスターを2箱、僕に差し出した。
(ああ、この男もパチンコで負けたのか)と思った。
 きっと、あと少し打てば、当たるかもしれないと考えているのだろう。
 関わりたくなかったから、僕は軽く断って、さっさと歩いた。

 僕は、この身体がパチンコになったのではないかと思うほど、頭はパチンコを中心にして回っていた。

 桜の季節には、桜の花弁がよく舞う台を思い、道でスズメを見かければ、スズメがチュンチュン鳴いている台を思い出した。
 夏はお祭りの台、秋は木枯らしの台、冬は雪の降る台を思い出した。

 そんな日常の中で、ある日、いつものように打っていると、突然、僕の背中から何かが飛び立って行った感覚を覚えた。
 それは、ほんとうに突然のことで、… それ・・は、その瞬間まで「僕にずっといたもの」だった。

 それは、僕が生まれてからずっと一緒にいたようなものだった。
 だから、いなくなるまで、その「存在」に気づきもしなかった。
 いなくなったその時、初めて「いた」ことに気づいた。

 僕は、それが僕の背中から飛び去った際、振り向いて、きょろきょろした。
 もう、それが二度と戻ってこないことを、僕は知っていた。

 それは、あまりにあっけなく、あまりに突然に、「あとは勝手にやりな」とでも言うように、離れていってしまった…
 今まで、ありがとう、と僕は思った。悲しく、淋しくもなって、僕は涙ぐんでいた。