(7)苦と快

 しかし一体、パチンコの他に、僕をあれほどに熱中させ、生きている実感を湧かせてくれるものが、他に何があったろうと思う。

 僕はアルバイトで毎月25~30万を稼いでいた。
 結婚してからも、「残業で遅くなる」などと嘘をつき、順調にパチンコに金銭を費やしていた。

 だが、子どもが生まれてからは、就職をしなければと思うようになった。
「お父さん」はネクタイを締め、イヤな会社に毎日、顔を青白くして通うものだと信じていたからだ。

 スーパーの正社員で、家賃1万円の借り上げ住宅に住み始め、定時で上がり、一家団欒の夕食、「いってらっしゃい」「いってきます」を自然な笑顔で言い合って、絵に描いた幸せなような日々に、一定期間はハマれた。

 そして飽きる未来が見える。幸せでなくなる時が来る、その時が怖くなる。
 でも、パチンコに飽きることはない。
 あの、1秒1秒、その瞬間瞬間に生命を賭けて金銭を投げる身震い、そして当たった時の快感に、もう一度身を埋めたくなる。

「たまにはいいだろう」の「たまに」が、たまにでなくなる。

 妻に、あまりのパチンコ狂いを咎められ、家出したことがある。
 2日間、カプセルホテルに泊まって、朝から晩まで打った。
 ちょうど20万勝って、「すみませんでした。でも、儲けてきました」
 家に帰り、正座して謝りながら戦利金を渡したりした。

 綱渡りをする僕は、落下した場合の安全網として、親を頼っていた。
 父は一流会社に勤めていたし、実家は都内の一軒家だ。それなりの貯蓄がされていて当然だろう…
「いざとなったら親に」の考えは、常にあったと思う。

 パチンコ三昧の日々。
 次第に僕は、勝っても、たいして喜べなくなってしまった。
 いや、悪い気はしないのだが、どうせまた使ってしまうことを、いやというほど知ったからだ。しかし、それでも、やめられない。

 5万負けた日は、「タバコを3ヵ月半やめれば5万を失ったことにならない」「銭湯に4ヵ月半行かなければいい」と考える。
 そして実行はしない。そう考えて、負けを無かったことにしたいのだ。

 打っている最中は、ただひたすら当たることだけを目指す。
 打つのを止めない限り、その可能性はあり続ける。これをみすみす、捨てることはない。

 当たった時は、この当たりが永遠に続きますようにと願う。
 そしてほんとに続いたりすると、「もう、当たらなくていいよ」とげんなりする。

 こんなにお金、儲けたら、悪いよ、と、本気で思う。
 止まらない「当たり」を苦しく思う。嬉しくも思う。今、この店内で、何万も負けている人のことを思う。

〈 快楽の絶頂の時、人は苦悶の表情をする 〉

 僕の矛盾、僕自身が矛盾そのものになって、しかもその矛盾が現実に、「僕」そのものになるような時間──