(9)理由としての理由

 僕は切に知りたい。
 1日に、パチンコ屋で17、8万もの大金を得た経験のある人が、どうやって、その場に再び行かぬことができるのか。

「依存症になるには、他に理由があるんですよ」
 椎間板ヘルニアになった時、世話になった整体師が言った。
 自分はダメな人間であるという意識。
 これは、1つの郷愁のような、僕が僕である基礎、土台、すなわち他に何の代替えもできない、自分だけの大切な基盤のように思える。

 僕は、自分がダメであるという意識以外に、僕の価値を見い出せない。
 この意識が喜び、すなわち僕が満たされるのが、あの銀玉の回る場所ではないか… それで、ほとんど本能的に足が向きたがるのではないか?

〈 理由は、できるだけいっぱい挙げるがいい。どれか1つは当たるだろう 〉

 自分を追い込もうとして、自分を痛ぶるために、あの銀玉を打ち込んでいた… そう思おうと思えば、思える。
 まだ、貯金がある。まだお金があるから、自分はダメなのだ。
 お金を失くして、自分を追い込めば、〈窮鼠猫を噛む〉〈火事場のクソ力〉が発動して、まっとうな人間になれるのではないか。そんな幻想を抱いた時もある。

 転職を繰り返す時、無職の時間がある。その時、こんなふうに考えてもいた。
 この仕事は自分に合う、合わぬなど贅沢を言っていられず、熱烈に、まじめに、しかしそれが常識であるように、並々ならぬ気概をもって、生きることができるのではないか…。

 あるいは(いや、コジツケであることは分かっている)、「妻のために」あの場所へ行きたいとも考えた。
 子育ても一段落し、妻も無職、僕も無職という状況の時、一日中顔を突き合わせているとあまり良い感じがしないのだ。
 彼女だって、ひとりになることは大切だろう… などと考えた!

「無職」の自意識。妻には「主婦」という肩書きが通用しそうだが、僕は男であって、平日の昼間に、外に出て隣人と顔を合わせたりすると、ひどく後ろめたい、恥ずかしい気持ちになった。

 働いているんですよ、というところを近所に思ってほしくて、そのために背広を着て家を出、パチンコ屋に行ったことさえあった。
 家にいたくない。お金を失くせば、まじめに働く、一般市民になれるだろう、等々、様々な理由をこじつけたが、
 
〈 単純な中に真理がある 〉

 これが、そのまま、ほんとうなのではないだろうか。
 ただ、私はパチンコが好きなだけではないだろうか。
 こうして深夜、この手記を進めているのも、夜、眠らずにいれば、昼間に寝ることができ、あの場所へ行かないで済むという、自己防衛のつもりなのだが…

〈 生来の性質は変えられないが、習慣は第二の性質をつくる 〉

 僕の習慣。僕の習慣。思考回路に、あるのではないだろうか。あるいは、記憶に…。
 それが現実の実態、つまり習慣そのものなっているのではないだろうか?