ブルーノ・ワルター

 ワルターのモーツァルトには、ワルターにしか出せない音がある。
 しかしこの音は、ほんとうに単なる音なのか?
 音だろう。音には違いないが、ほんとうに音だけを感じているのか?

 確かに音には違いない。が、この音を出しているのは、ニューヨーク・フィルであり、ケンウッドのCDラジカセである。ブルーノ・ワルターは、楽団を指揮している人に過ぎない。

 しかしワルターでないと、この音は出せないのだ。
 そしてこの音を聞き、わけもなく感動し、胸躍り、涙ぐむというわけなのだ。

 感動とは、それに接する者がすくわれなければ、感動という感情は起こらないそうである。するとぼくは、ワルターのモーツァルトを聞いて、すくわれているということになる。

 涙ぐむのは、何故か。
 この音を聞いていると、時間が過ぎることが、全く無力であると感じさせられる。音も、時間と同様に過ぎていく。当たり前過ぎるほど当たり前のことだ。
 が、この当たり前が、当たり前でない当たり前として、感じられるのだ。

 そしてCDは当然のように回転を止める。フタを開け、手にするものは、銀色の丸い物体である。
 しかし、確かにワルターが、すぐここに居る。
 ワルターが、確かにここに居るのだ。