モーツァルトは、映画「アマデウス」から入った。
17歳くらいの時で、映画の中のモーツァルトに自分を重ねていた。つまり、ぼくは自分を天才だと思っていたのだ。
天才は、歳だけ一丁前に取り、何をしたわけでなく、何をどうするというわけもなく、ただ、ばかみたいに生きている。
予備校生時代、NHK-FMからモーツァルトを、ラジカセで録音ばかりしていた。90分テープに、100本近く録音した。
大検にうかって、あとは大学受験。もう勉強、イヤだなー、と、うんざりしながら、モーツァルトを聴くことで、どうにかテキストを開き、形だけでもやるだけのことをやっていた。
モーツァルトを聴いていると、「もう、何もやらないでいいや」という気と、「さぁ、軽く何かやっちゃおうか」という気、このふたつの気に、自然になった。
そして、このふたつの「気」を自己の内に抱えたぼくは、その快い音楽から「何の問題もないよ。ノープロブレム!」と言われてた気になって、少し、軽やかな気分になることができた。
きっと、この音楽の中には、「何かする、何もしない、どっちを選んでもいいんだよ」という、訴えになっていない訴えがあって、聴いているぼくは「自由」になった気になれたのだと思う。
モーツァルトの中に、既に出来上がっていた音符の流れは、まったくモーツァルトが、ただ現実に、根源的に誰のためでもなく、ただ自分の中にある音符をそのまま現実に書いただけのように思える。
歌劇「ドン・ジョバンニ」は愛知で2回ぐらい観た。この歌劇が一番好きである。
「モーツァルトのオペラの中で、一番暗いオペラ」と、映画の中でサリエリが言っていたが、好きである。この嗜好は、どうしようもない。
モーツァルトの、長調の曲、明るい軽快な曲には、同時に哀しさがある。同居している。
短調の、絶望的な曲には、同時に希望が感じられる。
希望も絶望も、同じことだと思えてくる。