十五の初夏の日曜日

「家具、見に行ったんだって?」
 五月の日曜日、昼下がりの喫茶店。
 相沢恵子はそう言って、正面に座る皆川太一をジッと見つめた。
 太一は口ごもる。信じられなかった、どうしてバレたんだろう。

「結奈ゆいなちゃんから聞いたんだ。友達だから。学校、クラス同じなんだ」
 カミナリにでも打たれたようだった。
 太一は、下を向いた。呼吸が詰まって、心臓が高鳴った。
 血の気が引いて、このまま気を失ってしまいそうだった…

 恵子と太一は、中学二年からの恋人だ。
 同じ卓球部で、家も近く、帰り道が一緒だった。
その日の道すがら、好きな音楽、好きな本の話をすると、同じ音楽家、同じ作家が好きなことが分かった。
 ふたり、驚いた。
 その音楽家たちは一般にほとんど知られていない、「知る人ぞ知る」という存在だったからだ。

 さらに、よく頭にリフレインする曲のこと、忘れられない小説の一場面のことを話せば、同じところで体が弾み、同じところで涙ぐんでいることも判明した。
 太一は、嬉しくなった。彼女とは、合っている、と思った。
 昨日まで、適当に何か話し、ただ義務のように一緒に帰るだけだった恵子が、特別な存在に思えてきた。

 ── 以来、太一は、彼女の気持ちが、無言でいても、手に取るようにわかる気がした。
 彼女は、自分の分身のようだった。彼女を、大切にしたいと思った。… 自分を大切にするように。

 恵子が、彼の心に大きく占めはじめると、いつもゲームの話で盛り上がるクラスメイトたちとのつきあいが、つまらなく感じられた。 
 学校が退屈だから、たまたま周りにいるヤツらと話を合わせ、笑っていたかっただけのような気がした。
 こんな「友達」の代わりは、いくらでもいる。
 でも、恵子の代わりは誰もいない── そう思った。

 そして二年前の夏、太一は告白した。
 恵子はまっすぐ彼を見て、「わたしも好き」と言った。
 夢のような日々がはじまった。
 ぼくら、ふたりでひとつだね、などと言いあって、見つめあい、笑いあった…。

 太一が初めて、自分の分身のような恵子に「自己主張」したのは、進学先を都立にするか私立にするかで、彼女が迷っていた受験の時期だった。
 都立高校へ心が傾いていた恵子に、「私立がいいよ」と彼は強くすすめた。
 都立は男女共学で、私立は女子校だったからだ。

 男と、新しく出会う機会を、なるべく奪いたかったのだ。
 その本心は口にせず、べつの理由を何かとつけて、彼は真剣に私立をすすめた。
 恵子はN大付属の女子校に進学した。

 太一のほうは、家が貧しく、また学力もなかったので、定時制に進んだ。
 親戚がコンビニの店長をしていたので、昼間はそこで働くことが決まっていた。
 だが彼は、今年の四月から働きはじめたそのコンビニで、松川結奈と出会い、あっけなく恋に落ちてしまったのだ。
 
 結奈は、週三のペースでバイトに来ていた。
 商品の品出しが終われば、特にするべき仕事もない。
 客がいない時、ふたり並んでレジに立っていれば、会話は自然発生した。
 彼は、気さくに話しかけた。

「学校、楽しい?」「部活とか、やってるの?」
 おしゃべりを続けるうちに、仲良くなった。
 何回目かに一緒になった時は、「ご趣味は何ですか?」と冗談めかして聞くまでに。

 結奈はおかしそうに笑い、「趣味ねえ…。ヘンなんだけど、」と少しはにかんで、「家具見るのが好き」と言った。
「あ、家具、好きなんだ」
「うん、デパートとか行くと、必ず家具売り場見に行っちゃう。見ているだけで、もう楽しくって」ほんとに楽しそうに笑って言う。

 太一は少し考えたあと、「じゃあ今度、家具見に行こうか?」半分本気で言ってみた。
 すると、「あ、行こうか」結奈が笑った。
 そうして二人、翌週の日曜日、池袋の東武へ家具を見に行くことになったのだ。

 もちろん太一に、家具なんかへの興味はなかった。
 あるのは、結奈への好意と関心だけだった。
 結奈は、少しソバカスがあったが、薄茶色した眼がいつも遠くを見ているようで、その眼を見ていると、太一は自動的にその眼に吸い込まれていくのだった。

 恵子が、学級委員をつとめるほどシッカリ者だったのに対し、結奈はおさなく、夢みる少女のようだった。
 いつか結奈に、「恋とか、していらっしゃるんですか?」と冗談めかして聞いたことがある。
 すると結奈は、「恋ねえ…。わたし、いいなづけがいるの」と真剣な顔で答えたのだ。

「いいなづけ?… えっ、結婚するの?」
「うん。もう、そうなってるの」
 聞けば、幼なじみの「テル君」という男の子と、五歳くらいの時に「結婚する約束をしたの」だという。
 今、彼は親の転勤で兵庫に住んでいるが、今も連絡をとりあい、関係は「もちろん」続いているという。

 太一は、内心でセセラ笑った。そんなの、いつまでも続くわけがない。
 離れていたら、男なんて何してるか分かりゃしない。
 だが、あの茶色い、遠くを見つめるような眼でそう言われると、彼はやはり自動的に吸い込まれた。
 そして彼女が見つめている未来、その見ている先を、同じあの眼の中に入って、ずっと一緒に見ていたい気になるのだった。

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 太一にとって、結奈は「異世界ファンタジー」のような存在だった。趣味も合わず、話をしていてもどこかがスレ違い、笑うポイントもズレていた。
 それがまたふたりを笑わせてもいたのだが、なによりその結奈との「距離」が、彼を自由にさせていた。
 彼は、彼女の世界へ飛び込んでいきたいと思え、そして飛んでいけると思ったのだ。

 恵子には、その必要がなかった。
 一緒にいて、何の異和感もなく、着地していられたからだ。
 また、太一は、恵子以外の女の子と、こんなに親しくなった経験がなかった。
 一緒に立ち働き、何やかんやと笑いあえる結奈の存在が、何としても新鮮で、あたらしかったのだ。
 
 約束の日曜日、太一は、そのような心から猿のようにハシャイでいた。
 気に入った家具を見て、結奈が嬉しそうな顔をすれば、彼は彼女以上に嬉しくなった。

 フロアを入念に回る二人を、店員は新婚だと思うだろう。
 素敵なお嫁さんだな、と思うだろう。
 そんな根も葉もない空想も、彼をわけもなく得意にさせた。

「デート」は、約三時間で終わった。最後のほうになると、もう話すこともなく、ふたりとも、妙に疲れていた。
 だが、太一は幸せすぎるほど幸せだった。いっぱい飛べた、いっぱい舞えた…

「ちょっと話したいことがあるんだけど」恵子から電話が来たのが、その一週間後だった。
 いつになく真剣そうなその声音に、太一は、何かあったのかな、と思った。
 そして指定されたこの喫茶店に入り、── 今にいたるのだ。

「… もうすぐ、来るよ、結奈ちゃん」
「え?」
 黙りこくったテーブルに、ごめん遅れた、と結奈がやって来た。
 恵子の隣りに座りながら、「わたしのいいなづけも、もうすぐ来るよ。学校サボッて、各駅停車でひとり旅してる途中なの。ちょうど今日、東京にいて。ここに誘っちゃったの。ごめんね」

「えっ、そうなんだ」恵子が驚いた。
 路地裏に連れていかれて、ボコボコにされるんだ、と太一は思った。

「恵ちゃんのことも、皆川君のことも話してるから。隠し事をしないっていうのが、テル君とわたしの約束なの。
 こんなことがあった、今こんな感じでいて、こんなこと考えているって、週末にいつも電話で話すんだ。
 彼、皆川君と会えるの、楽しみにしてたよ。あ、来た来た」

 結奈が立ち上がり、手を振った。

「テル君」はもうテーブルのそばに来ていて、「初めまして、宮本です」と右手を差し出した。
 立ち上がった太一と恵子は、その手を握り、三人はお辞儀をした。

「皆川さん、こないだは家具を見に連れて行ってくれて、ありがとうございました」
 太一の隣りに座った彼は、頭を下げてそう言うと、今度は恵子に向かい、
「どうか、これからもよろしくお願いします。あの、すみません、ほんとにすみません」
 とひとりで口ごもりはじめた。

「単刀直入、あの、どうか、仲良くして下さい。お別れにならないで下さい。
 今日、何か決着をつけようとしていたんでしょう?」
 恵子は、ぽかんと口をあけた。
 彼は、汗をたらしながら滔々としゃべりだした。

「ぼく、誰かを好きになって、結奈が妬やいて、ぼくを嫌いになったことがあったんです。
 逆のこともありました。でも、ぼくら、最後のところで切れなかったんです。
 好きだったんでしょうね、結局。いや、それがはじまりだったんです。

 … おたがいに、何を見て、おたがいの何を見て、シンジたり、ウラギラレたりしてるんだろう、って、ふたりで考えました。
 で、ぽつぽつ話し合って、気づいたんです。
 信じていた自分は、信じたいから信じていたんです。
 で、裏切られた、って思うのは、相手が自分の想う通りでなかった、ということでした。

 でも、それは当たり前のことだ、って思ったんです。
 ひとりよがりな恋が終わって、ホントの愛がはじまった、って手ごたえを、ふたりして感じました。
 認めあえたんですよ、ぼくら、他人どうしだね、って。

 理解するとかしないとか、許すとか許さないじゃなくて、相手が自分と違うということを、おたがいに認めあったんです。
 そしたら── その違いが、つまりぼくらは同じじゃないということが、すごく楽しくなってきたんです。
 それまで、その違いのために苦しんでいたのに。

 今起きている戦争も、違う相手を認めたくないから、こっちのいうことをきけ、って攻撃を始めたようなものでしょう?
 ひどい世界をつくる火種、自分の中にもあるんだ、って思いました。

 あんなおとな…あんな人間なんかに、ぼくはなりたくない。
 そう、死ぬことについても、考えましたね。
 どうせいつか死ぬのに、どうしてわざわざ、傷つけあったり殺しあったりするんだろう、って。

 死ぬまで、なるべく、平和な世界に暮らしたいな、って思います。
 だから、みぢかにいる人を、まず大切にしたいな、って思います。

 なにも、ぼく、めんどくさいお節介をしに来たんじゃありません。
 ただ、認めあって、違いを…。たとえ、できなくても、しようとして…
 それをしないで、別れちゃうのはモッタイナイって。それだけ、言いたかったんです…」

 テルはそう言って氷水をぐびぐび飲んだ。
 あとを引き継ぐように結奈が言った。
「今は、勢いでおかしくなっちゃってるけど、どうしてこうなったのか、気持ちを伝えあったらいいと思う…
 特に皆川君は、今までのことを丁寧に説明して」

 恵子は、太一がどういうつもりで結奈と家具を見に行ったのかを知りたかった。
 そして自分と結奈のふたりを前にして、彼がどういう態度に出るのかを、この眼で見定めたかった。
 そのために結奈に来てもらったのだ。

 それなのに、おかしな方向に話が進んでいる…。でも、何か刺さったな。

 太一は太一で、まだ悪夢の中にいるようだった。
 なんでこんなことになったんだろう、と、そればかり考え、悲嘆に暮れていた。

 もう、恵子から心が離れてしまったんだ、と思った。
 だから結奈と一緒にいることが、あんなにも楽しかったんだ。
 もう戻れない。
 タイムマシンで戻ったとしても、また同じことを繰り返すだろう自信もあった…。

 結奈がまた喋り出した。
「皆川君は、わたしのこと、好きなんでしょ。でも恵ちゃんのことも好きなんだよ。
 だから恵ちゃんのこと、まっすぐ見れないで、固まってるんだ。

 恵ちゃんは皆川君のホントの気持ちを知りたくて、ずっと真剣になってる。
 ふたりとも、好きなのに。
 今は、こういう時にしかすぎないのに。

 今まで、いっぱい楽しいこともあったでしょうに。
 これからも、つくっていけるでしょうに。
 ああ、モッタイナイ、モッタイナイ」

「ちょっと、外、歩きません?」
 テルがふいに言った。
「ぼく、相沢さんと手をつないで歩きたいな。皆川さんは、結奈と手をつないで」

 恵子があきれた顔で苦笑した。
 太一は気が抜けて笑った。
 まったく、笑うしかなかった。
 その時、一瞬、眼が合った。
 おたがい、その顔が、ひどく懐かしかった。

 結奈が仕方なさそうに、「この人、いつもこんな冗談ばかり言ってるのよ」と笑った。
「友達が欲しいんだ、ぼく」テルが言った。
「いろんなことを、真剣に話せる」

 四人は喫茶店を出た。
 太一は、やっと解放された気分だった。
 そしていつか、恵子に、結奈と家具を見に行った経緯と、そのときの自分の気持ちを正直に伝えよう、と考えていた。