「緑の扉」
商店街を歩いていたら、そんな名前の理髪店。
たしか、О・ヘンリの小説にあったな。昔々に読んだ短編のタイトルだ。
現実に、扉を開けると、「はい、いらっしゃい」
店主がこちらを向いて言う。手は作業中。
客は一人。
てるてる坊主みたいになって、神妙に目を瞑つむって、頭を主人に任せている。
L字に置かれたソファで待つ。
リュックから文庫本を取り出す。
「出家とその弟子」倉田百三。
べつに、出家するために散髪に来たわけでないけれど。
「はい、お待ちどうさま」
主人が、白いケープを片手に、こちらを向いて言う。
六十代だろうか。
でも品がある。
ほとんどおじいさんなのに、薄ピンクのYシャツが似合っている。
眉毛と目の間隔が狭いから、モアイ像のようにも見える。
背は高いけど、温厚そうだ。
「どうしましょう」鏡に向かって彼が言う。
「ブルース・リーみたいにして下さい」
「ブルース・リーね」
ケープを巻かれ、ぼくは目を瞑る。
ジョキジョキと、うなじのほうから主人の長バサミの音がする。
「今時、珍しいね、本を読まれて」
「え。ああ、そうですね、みんなスマホばかりしてますもんね」
「そうそう。わたしも文芸雑誌を昔はよく読んだけど、今はつまらなくてねえ」
「ご主人も、お好きなんですか、本」
「好きだったねえ。投稿小説サイトにも書いたりしてたんだけど」
「へえ、すごい。小説ですか」
「まあ、誰でも書けるからねえ」
左耳へ、ハサミが移動する。少し、こそばゆい。
「ぼくも書いてたんですよ」
「ほお、おたくも。どうでしたね」
「うーん。読まれる時は読まれて、読まれない時は読まれない。そんな感じでしたね」
「ははは。そりゃそうだ」
耳の上から頭頂部へ、サイドもハサミ一つでチャキチャキ仕上げていく。
「どうして、やめられたんですか」
「まあ、人間関係がイヤになっちゃってねえ」
「人間関係」
「ええ。コメントとかあるでしょう。
いいねとか貰ったら、お返ししなきゃいけない。あれが面倒でねえ」
「ああ」
「ランキングなんかあったって、そのやりとりの上でしょう。
公正、正当でないような気がしてねえ。
それに一喜一憂するのもイヤになっちゃってねえ」
「ああ。ぼくもコメントとか貰いましたけど、うーん、ぼくの場合、あ、わかってもらえたんだ、って嬉しさの方が大きかったですね。
で、自分の文をわかってくれた人って、どんな人なんだろうって興味が湧いて、その人のところに行って真剣に読みました。
作品はもちろんだけど、それを書いた人そのものに興味があって」
「まあ、書いたものに、その人となりが出るからねえ」
「そうなんですよね。人間… ぼく、結局、人間にしか興味がないみたいなんです」
「ははは。まあ、あれこれ言い合えるのも人間しかいないからねえ」
主人が右へ移動する。
右耳は、そんな、こそばくない。
耳まわりを丁寧にハサミがまるくする。
「だから、この人はチャンとしてる、って分かって、その人の書いた小説の意図にも好感が持てたら、ポチッとしてました、感想も書いて。
義理ではなくて、好きになりますね。好きな人の作品が、多くの人にもっと読まれたら、自分のことみたいに嬉しくなって」
「ほう。人間が好きなんだねえ」
「まあ、でもヤな人もいますけどね、会社なんかじゃ…」
「まあ、どこにでもおるね」
モアイのような主人が、口元に笑いを浮かべて、サイドから頭頂部へハサミを駆け上らす。
「ぼく、編集の仕事してるんですけど」
「ほう」
「やっぱり今は異世界だって。一昔前の小説は限界だって。
社長も言うんですよ。ちっちゃな会社です。
読者はもう型にはまった小説のカタチには、飽きちゃったんだって。
作家も、定形からハミ出そうとしない。
決まったパターンをなぞって、ぬりえをして色彩の出来栄えを競い合っているようなものだ、って」
「ほう。なかなか…」
「辛辣でしょう。手を変え品を変え、いろいろ書いている作家は多いけれど、作家自身が従来の枠組みからハミ出せない。
だったら、異世界転生の方がイサギいい。
自動車事故にあって死んで、中世に転生して、そこでラブラブして、起承転々々々々結して終わる、決まりきった異世界モノが、ばかみたいで面白い、へたに小利口ぶった理詰めの作品よりも、単純な作品の方がシンプルで面白いんだ、って」
「ほう」
「みんな同じ舞台設定で、誰が書いても同じような異世界モノは、だから読み手に安心感を与えるんだ、って。
水戸黄門の印籠を見て、毎回めでたしめでたしで終わるのを見て喜んできた国民だ、業界も今の読者が求めるニーズに合わせなくちゃいかん、って」
「ほう。水戸黄門も、だいぶ昔だけどねえ」主人がニコニコして言う。
「そうなんですけどね。… でも、結局なんでもワンパターンになっちゃうんでしょうかねえ」
「まあ、生活じたいが同じパターンの繰り返しじゃから…」
ハサミが前髪に移動する。ぼくは目を閉じ、口をつぐんだ。
「でも、ありがたいことだと思いましたね、書いて、発表できる場があるというのは」
「うん、それはあったねえ。わたしは暇つぶしで書いていたけれど」
「ぼくは会社が妙な方向に行ってるんで、そのウップン晴らしに書いてました。
最初は、イイものを世に出していこうとしていた会社なんですけど、だんだん経営が厳しくなって」
「ああ」
「多数が正義だ、みたいになっちゃって。マーク・トウェインは少数派がいつも正しい、とか言ってたけれど」
「まあ、正義なんて言い出したらねえ。わたしも言ってたけど」
顔についた髪をタオルで拭かれる。
髪まみれのケープがほどかれ、新しいタオルとビニールケープが首から巻かれる。
洗髪台のシャワーの湯加減を主人が確かめる。
「はぁい、どうぞ」
── もう、何も考えまい。転職か。
40。
編集者なんて、ツブシのきく職業でもない。
でも、新人の発掘は楽しかったな。
ここは、もっとこう書けばいいんじゃないか、と指摘すれば、びっくりするほど見事に書き直してきたSも、もう作家になるのをあきらめたのかな。
惜しい。
作品にも、人と同じように運命がある。
ぼくはどうやって生きていこうかな。
いや、もう何も考えまい、なるようになる、なるようにしかならない…
「もう、書かないのかね」
主人がぼくの頭を拭きながら鏡に向かって聞く。
「サイトにはまだ残ってるんですけどね、何のために書くんだろう、って考えちゃいますね、何か書きたくなる時はあるんですけど」
「何のために、か。まあ、あまり決めつけないで、書きたい時に書けばいいんじゃないかねえ」
「ご主人は、もう書かないんですか」
「まあ、もうやめちゃったからねえ」
「書くとしたら、どんな投稿サイトが理想ですか」
「理想ねえ。まあ、真剣に書いてる人が多いのがいいねえ。
批判されても、真剣ならそれも糧にできるし。褒めてばかりいられても、成長はないだろうからねえ。
まあ、でも楽しくやればいいんじゃないかなあ、何でもねえ。あんた、まだ若いんだし」
ドライヤーで乾かされ、細かな補正のためのハサミがチョキ、チョキと入れられる。
「このお店の名前は、О・ヘンリから取ったんですか」
「そうそう。あの作家、好きでねえ。真の冒険者は何も怖がらない、って文中にあったんじゃないかな。
わたしは怖がりでね、自分を諫める意味で、つけたんですよ」
「ああ。モーパッサンの短編集とかは」
「ああ、あれもよかったねえ。チェーホフも、まあ、ねえ」
「モリエール」
「ああ、『人間ぎらい』ね」
「ほんとにいろいろ読んでますね」
「まあ、暇つぶし、暇つぶし。仕事も、暇つぶし。はーい、お疲れさま」
ケープが解かれる。主人は、終始ニコニコしていた。
どんな作品を書かれていたんだろう?
扉を開ければ、きっといろんな出逢いがある。
… 勇気、か。