(1)わかりやすい相手

 わたしは、裏表のある人間である。
 ひとりでいる時、黙っているからだ。

 誰かと一緒にいる時、わたしは喋り、笑う。
 だが、ひとりでいる時、わたし喋らず、笑わない。

 わたしには、裏表がある。
 左右がある。斜め上下がある。
 置かれた状況、対する人によって、わたしはあっけなく変化する。

 このひとは、こういう人だ、とシャッターを切れば、なかなかその映像は動かない。
 わたし自身にも、自撮り機能がある。

「自分はこういう人間だ」とする。
 実はそうでないのに、固定観念に念写された画像は、なかなか動かない。

 わたしは、自分の気に入った相手とつきあう。
 気に入らぬ相手とは御免こうむる。

 それも、この画像をもとに。
 実際はまるで違う実像であったとしても。

 今わたしがつきあっている相手は、裏表のない人だ。
 ひとりでいる時も、わたしと会っている時も、変わらずに見える。そう思える。

 この相手は、ばかみたいに単純なのだ。
 単純でありながら、やたら考える面もあるが、基本的に驚くべき単純さで生存している。

 何やらネットに小説を書いているらしいが、PVが増えれば嬉々として、増えなければこの世の終わりのような顔をしている。

 ごまかしたって、すぐ分かる。
 顔に出るのだ。
 一度読んだことがあるが、面白い時は面白く、つまらない時はほんとにつまらない。

 波が激しすぎる。
 そのままの性格が顕著に表れている。極端なのだ。

 また、こいつはよく風邪をひき、少しでも身体の具合が悪いと、いかにも弱々しくなる。

 もうダメだもうダメだとうわ言のように言って、布団にくるまっている。
 回復すれば、ひとりで飛んだり跳ねたりしている。

 まるで猿だ。
 そしてその根幹を貫いているのは、あのミトコンドリアの単純さなのだ。

 それでも、わかりやすいのがいい。
 ごまかしたり、嘘がつけない人間。

 いまや、希少価値、絶滅危惧種の人間ではないかと思う。
 一緒にいて、疲れることもあるが、ごまかされ、嘘をつかれるより、よっほどマシだ。
 同じ疲れるにしても、ややこしくない。

 性格が邪悪でないから、人受けも良いらしい。
 だが、本人は人間が苦手だと言っている。
 人間関係は疲れる、と。

 そのくせ淋しがり屋だ。
 矛盾の塊で、その矛盾を許せる相手とでなければ、つきあえない。

 ひと皮むけば、盾も矛もない、超シンプルな人間なのだが。

 わかりやすい人間は、つきあいやすい相手だ。
 やさしい人でもある。
 やさしいとは、「やすい」の変換語だ。
 その相手とつきあう人間にとって、くみしやすいから、「やさしい」と言われるのだ。

 わたしがこの相手を好きになったのは、つきあいやすかったからに他ならない。

 賢者のソクラテスなどは、わざわざ自分を鍛えるために、悪妻クサンチッペをめとったけれど、わたしは賢者ではない。
 面倒くさいのはごめんだ。

 面白い人間がいい。
 猿のように単純な人間は、見ていて面白い。

 わたしにはSの傾向があるので、たまに冗談でくすぐりの刑をしてやる。
 こいつが逃げると、追いかけてやる。

 こいつも、まんざらでもないらしい。
 息もつけぬほど、楽しそうに笑っているからだ。

 もう、つきあって10年になるけれど、ワンパターンの平坦な生活に、こういう刺激は良い棘になる。

 はたから見れば、バカなふたりだ。
 バカで、何が悪いと思う。
 へたに賢いより、よほど楽しい。

 単純な相手とつきあうことは、わたしに笑いをもたらす。

 わたしの固定観念によれば、この生物は、変わっていて、面白い。