わたしは、裏表のある人間である。
ひとりでいる時、黙っているからだ。
誰かと一緒にいる時、わたしは喋り、笑う。
だが、ひとりでいる時、わたし喋らず、笑わない。
わたしには、裏表がある。
左右がある。斜め上下がある。
置かれた状況、対する人によって、わたしはあっけなく変化する。
このひとは、こういう人だ、とシャッターを切れば、なかなかその映像は動かない。
わたし自身にも、自撮り機能がある。
「自分はこういう人間だ」とする。
実はそうでないのに、固定観念に念写された画像は、なかなか動かない。
わたしは、自分の気に入った相手とつきあう。
気に入らぬ相手とは御免こうむる。
それも、この画像をもとに。
実際はまるで違う実像であったとしても。
今わたしがつきあっている相手は、裏表のない人だ。
ひとりでいる時も、わたしと会っている時も、変わらずに見える。そう思える。
この相手は、ばかみたいに単純なのだ。
単純でありながら、やたら考える面もあるが、基本的に驚くべき単純さで生存している。
何やらネットに小説を書いているらしいが、PVが増えれば嬉々として、増えなければこの世の終わりのような顔をしている。
ごまかしたって、すぐ分かる。
顔に出るのだ。
一度読んだことがあるが、面白い時は面白く、つまらない時はほんとにつまらない。
波が激しすぎる。
そのままの性格が顕著に表れている。極端なのだ。
また、こいつはよく風邪をひき、少しでも身体の具合が悪いと、いかにも弱々しくなる。
もうダメだもうダメだとうわ言のように言って、布団にくるまっている。
回復すれば、ひとりで飛んだり跳ねたりしている。
まるで猿だ。
そしてその根幹を貫いているのは、あのミトコンドリアの単純さなのだ。
それでも、わかりやすいのがいい。
ごまかしたり、嘘がつけない人間。
いまや、希少価値、絶滅危惧種の人間ではないかと思う。
一緒にいて、疲れることもあるが、ごまかされ、嘘をつかれるより、よっほどマシだ。
同じ疲れるにしても、ややこしくない。
性格が邪悪でないから、人受けも良いらしい。
だが、本人は人間が苦手だと言っている。
人間関係は疲れる、と。
そのくせ淋しがり屋だ。
矛盾の塊で、その矛盾を許せる相手とでなければ、つきあえない。
ひと皮むけば、盾も矛もない、超シンプルな人間なのだが。
わかりやすい人間は、つきあいやすい相手だ。
やさしい人でもある。
やさしいとは、「やすい」の変換語だ。
その相手とつきあう人間にとって、くみしやすいから、「やさしい」と言われるのだ。
わたしがこの相手を好きになったのは、つきあいやすかったからに他ならない。
賢者のソクラテスなどは、わざわざ自分を鍛えるために、悪妻クサンチッペをめとったけれど、わたしは賢者ではない。
面倒くさいのはごめんだ。
面白い人間がいい。
猿のように単純な人間は、見ていて面白い。
わたしにはSの傾向があるので、たまに冗談でくすぐりの刑をしてやる。
こいつが逃げると、追いかけてやる。
こいつも、まんざらでもないらしい。
息もつけぬほど、楽しそうに笑っているからだ。
もう、つきあって10年になるけれど、ワンパターンの平坦な生活に、こういう刺激は良い棘になる。
はたから見れば、バカなふたりだ。
バカで、何が悪いと思う。
へたに賢いより、よほど楽しい。
単純な相手とつきあうことは、わたしに笑いをもたらす。
わたしの固定観念によれば、この生物は、変わっていて、面白い。