すべての物は、彼れと呼びえないものはなく、また是れと呼びえないものはない。
それなのに、なぜ離れているものを彼れと呼び、近いものだけを是れと呼ぶのか。
離れている彼れの立場からは見えないことでも、自分の立場で反省してみれば、よく理解することができる。
だから身に近いものを是れと呼んで親しみ、遠いものを彼れと呼んで差別しているにすぎない。
だから次のように言える。彼れという概念は、自分の身を是れとするところから生じたものであり、是れという概念は、彼れという対立者を元として生じたものである。
つまり彼れと是れというのは、相並んで生ずるということであり、たがいに依存しあっているのである。
しかしながら、このように依存しあっているのは、彼れと是れだけではない。
生に並んで死があり、死に並んで生がある。
可に並んで不可があり、不可に並んで可がある。是を元にして非があり、非を元にして是がある。
すべてが相対的な対立にすぎず、絶対的なものではない。
だからこそ聖人は、このような相対差別の立場によることなく、これを天に照らす── 差別という人為を越えた、自然の立場から物をみるのである。
このような聖人は、是非の対立を越えた、真の是に身をおくものといえよう。
もしこのような自然の立場、相対差別という人為を越えた立場からみれば、是れと彼れとの区別はなく、彼れと是れは同じものになる。
たとえ是非を立てるものがあったとしても、彼れは彼れの立場を元とした是非を立てているにすぎず、此れは此れの立場を元とした是非を立てているにすぎない。
それに、もともと彼れと是れという絶対的な区別が果たして存在するのか。
それとも、彼れと是れとの区別が存在しないのか、根本的に疑問ではないか。
このように彼れと是れとが、その対立を消失する境地を、道枢という。枢── 扉の回転軸は、環の中心にはめられることにより、初めて無限の方向に応ずることができる。
この道枢の立場に立てば、是も無限の回転を続け、非もまた無限の回転を続けることになり、是非の対立はその意味を失ってしまう。
先に「明らかな知恵をもって照らすのが第一である」と言ったのは、このことにほかならない。
── 「絶対無差別」という思想、立場も、荘子の尊い物の見方だ。
人間個人、自己自身の中にある芯。これをニュートラルな状態にすること。無のような状態? でありながら、物事・事象の本質を見つめる、観察すること…
絶対無差別。その立場にほんとうになれたなら、知恵… ものを明らかに見れ、そこから知恵が自然におりてくる感じがする。気のせいかもしれないが。
知恵は、しぼるものでなく、物事の本質を見る、ニュートラルに見る。自己自身さえ、その時、あるのかどうか分からない。そんな、心もなくしたような状態、自己をなくしたような時の時、知恵というものは自ずと生じてくる。そんな気がしてならない。
自分が何をしよう、何を言おうという意思が、自分にもない。自然に、導かれる感覚。
知恵で照らす── その対象を、照らす前に、ニュートラルな立場、無自己のような自己でありながら、その対象を観察すること… みつめること。すると、自分のすること、言うことが、自分の意思に関わらず、自ずと流れ出てくる気がする。(書いていて、そんな状態になる時が昔はあった)
なかなか、生活の中でそんな境地にはなれないが、それを意識する/しないで、「慣れ」てくるものと思う。
わるい習慣に慣れるでなく、いい習慣へ自分を慣らして行ければと思うのだが。日常生活の、気持ちの中で。
いいとか、わるいとかも、それに捉われない。
まずは意識を。ここから始めている。