斉物論篇(九)

 すべての物は、れと呼びえないものはなく、またれと呼びえないものはない。

 それなのに、なぜ離れているものを彼れと呼び、近いものだけを是れと呼ぶのか。

 離れている彼れの立場からは見えないことでも、自分の立場で反省してみれば、よく理解することができる。

 だから身に近いものを是れと呼んで親しみ、遠いものを彼れと呼んで差別しているにすぎない。

 だから次のように言える。彼れという概念は、自分の身を是れとするところから生じたものであり、是れという概念は、彼れという対立者を元として生じたものである。

 つまり彼れと是れというのは、相並んで生ずるということであり、たがいに依存しあっているのである。

 しかしながら、このように依存しあっているのは、彼れと是れだけではない。

 生に並んで死があり、死に並んで生がある。

 可に並んで不可があり、不可に並んで可がある。を元にしてがあり、非を元にして是がある。

 すべてが相対的な対立にすぎず、絶対的なものではない。

 だからこそ聖人は、このような相対差別の立場によることなく、これを天に照らす── 差別という人為を越えた、自然の立場から物をみるのである。

 このような聖人は、是非の対立を越えた、真のに身をおくものといえよう。

 もしこのような自然の立場、相対差別という人為を越えた立場からみれば、れとれとの区別はなく、彼れと是れは同じものになる。

 たとえ是非を立てるものがあったとしても、彼れは彼れの立場を元とした是非を立てているにすぎず、れは此れの立場を元とした是非を立てているにすぎない。

 それに、もともと彼れと是れという絶対的な区別が果たして存在するのか。

 それとも、彼れと是れとの区別が存在しないのか、根本的に疑問ではないか。

 このように彼れと是れとが、その対立を消失する境地を、道枢どうすうという。とぼそ── 扉の回転軸は、の中心にはめられることにより、初めて無限の方向に応ずることができる。

 この道枢の立場に立てば、是も無限の回転を続け、非もまた無限の回転を続けることになり、是非の対立はその意味を失ってしまう。

 先に「明らかな知恵をもって照らすのが第一である」と言ったのは、このことにほかならない。

 ── 「絶対無差別」という思想、立場も、荘子の尊い物の見方だ。

 人間個人、自己自身の中にある芯。これをニュートラルな状態にすること。無のような状態? でありながら、物事・事象の本質を見つめる、観察すること…

 絶対無差別。その立場にほんとうになれたなら、知恵… ものを明らかに見れ、そこから知恵が自然におりてくる感じがする。気のせいかもしれないが。

 知恵は、しぼるものでなく、物事の本質を見る、ニュートラルに見る。自己自身さえ、その時、あるのかどうか分からない。そんな、心もなくしたような状態、自己をなくしたような時の時、知恵というものは自ずと生じてくる。そんな気がしてならない。

 自分が何をしよう、何を言おうという意思が、自分にもない。自然に、導かれる感覚。

 知恵で照らす── その対象を、照らす前に、ニュートラルな立場、無自己のような自己でありながら、その対象を観察すること… みつめること。すると、自分のすること、言うことが、自分の意思に関わらず、自ずと流れ出てくる気がする。(書いていて、そんな状態になる時が昔はあった)

 なかなか、生活の中でそんな境地にはなれないが、それを意識する/しないで、「慣れ」てくるものと思う。

 わるい習慣に慣れるでなく、いい習慣へ自分を慣らして行ければと思うのだが。日常生活の、気持ちの中で。

 いいとか、わるいとかも、それに捉われない。

 まずは意識を。ここから始めている。