斉物論篇(十二)

 心を労して、むりにすべてを一つにしようと努力し、実はすべてが自然のままに一つであることを知らないもの、これを朝三ちょうさんという。

 朝三とは何か。こういう話がある。

 ある時、猿まわしの親方が、猿どもにとちの実を分配しようとして、「朝に三つ、暮れに四つでは、どうか」と相談した。

 すると猿どもは腹を立て、「それでは少なすぎる」と言った。

 そこで親方が「それなら朝に四つ、暮れに三つでは、どうかね」と言ったところ、猿どもは大喜びしたという。

 名実ともに何の変わりもないのに、喜怒の情が働くのは、自分自身のあさはかな是非ぜひの心に従うからである。

 だから聖人は、是非の対立を和合させて、差別の人為のない、自然の境地── 天鈞てんきんに安住するのである。

 別の言葉でいえば、もそのままに是認して、両者をそのままに行かせること── これを両行りょうこうというのである。

 ── ブッダは「心の奴隷になるな。心のあるじとなれ」と言った。

 是非の対立、それは心が生ませるものだ。

 ぼくは、戦争のことを考えざるをえない。

 おそらく、なくすことはできると思う。人類の歴史の上で、戦争のない時間、そんな時期は、きっとつくることができると思う。

 そのヒントは「荘子」にも書かれていると思うし、仏典やソクラテスの態度、モンテーニュの人生への姿勢とでもいったものに、含まれていると思う。

 いや、そんな、限定するものではない。一匹のアリ、一羽のスズメ、ひとひらの花弁から、それは感じられる、体得・感得のできる「書物」だ。

 一をもって百を知る、というほどのことでもない。

 ただそのままである一つ一つのもの… それらは一つ一つでありながら、「」に通ずる、というもの。

 それは相対から成る絶対でなく、最初からある絶対、とでもいうもので…

 しかも個々の内にのみ存在するものではなく、個々の内にありながら、個々ではないものの中にあるという。(中・内・外、名称、呼び名は何でもいい。「ある・・」、あるということ)

 心を労して、すべてを一つにする必要などない。

 一つ一つであること、それすなわちが既に一であるということ。気を抜いて言うなら、そのままで、一つ一つ、すでにいいのだ、ということ。

 そのままで十全。まったく、いいのだということ。