齧缺が、師の王倪に問いかけた。
「先生は万人が一致して正しいと認めるような事実を、ご存知でしょうか」
「わしは、そんなことは知らないよ」
「それでは先生は、自分が知らないということを、ご存知でしょうか」
「それも知らないね」
「それでは、いっさいのものは、何もわからないということになるのでしょうか」
すると、王倪は答えた。
「それも、わしにはわからんよ。だが、せっかくだから、いちど試しに言ってみよう。
自分で知っていると思っていることが、実は何も知っていないことであったり、反対に、自分では知っていないと思っていることが、案外に知っていることであったりするものだ。
それでは、お前にたずねてみよう。人間は湿気の多いところで寝起きすると、腰の病気が出て、半身不随になって死んでしまうが、鰌などにはそんなことはないではないか。
また、人間は高い木の上に住んだりすると、ふるえあがって怖がるが、猿はいっこうに平気だ。
人間、鰌、猿のこの三者のうちで、どれがほんとうの住処を知っていることになるのだろうか。
人間は家畜の肉を食い、鹿は草を食い、百足は蛇をうまいと思い、鳶や烏は鼠を喜んで食う。
この四つのもののうちで、どれがほんとうの味を知っていることになるのだろうか。
猿は狗狙を雌として追い求め、馴鹿は鹿と交わり、鰌は魚と仲良く泳ぎまわる。
ところで、毛嬙や麗姫は、人間がこれを絶世の美女だとするけれども、魚はその姿を見ると、恐れて水中深く沈み、鳥はその姿を見ると、驚いて空高く飛び去り、鹿の群れはその姿を見て、一目散に逃げ出すだろう。
わしの目から見れば、世間でいう仁義のけじめや、是非の道すじなどは、わけがわからないほどに混乱しており、わしにはさっぱり区別がつかないよ」
── この出だしがたまらない。
「ご存知ですか」「知らないよ」「では、これは?」「それも知らないね」
これなんて、ソクラテスの「無知の知」ではないか。
ほんとうのこと(大切なこと)を、わたしは知らない、という…
これだけで、もう充分だ。