最後に、長梧子は言う。
「もし私とお前とが議論をしたとする。お前が私に勝ち、私がお前に勝てなかったとすれば、お前がはたして是であり、私がはたして非であることになるのだろうか。
反対に、私がお前に勝ち、お前が私に勝てなかったとすれば、私がはたして是であり、お前がはたして非であることになるのだろうか。
一方が是であり、他方が非なのであろうか。
それとも双方が是であり、双方が非なのであろうか。
このような是非の決定は、対立の関係におかれている私とお前とだけでは、到底くだすことができない。
といって、このような対立をそのまま持ち込んだのでは、第三者の立場にある人間も、わけのわからぬ事態を引き受けることになるだろう。
それでは、どのような人間に正しい判定を頼めばよいのであろうか。
お前と同じ立場をとる人間に判定させるとすれば、これはお前と同じ意見なのだから、公正な判定ができるはずがない。
といって、私と同じ立場をとる人間に判定させるとすれば、これは私と同じ意見なのだから、やはり公正な判定ができるはずはない。
それでは、私ともお前とも違う意見をもつ者に判定させれば、どうか。
その人間は、私ともお前とも意見が違うのだから、正しい判定をすることができない。
といって、私ともお前とも同じ意見をもつ者に判定させれば、どうであろうか。
その人間は、私ともお前とも意見が同じなのだから、やはり正しい判定をくだすことはむりだろう。
とするならば、私も、お前も、第三者も、みな是非のあるところを知ることができないのである。
これ以外のだれに、判定を期待することができようか。
ここで、どうしても天倪── 差別を越えた自然の立場で和するということが必要になる。
それでは、天倪をもって対立を和するとは、どのようなことをいうのか。
世の議論では、是であるとする意見と、是でないとする意見が対立し、そうであるとする意見と、そうでないとする意見が対立する。
もし、その是が真の是であれば、それは不是とは相容れないのであるから、不是とする議論は起こるはずがない。
また、その然が真の然であるならば、それは不然と相容れないのであるから、不然とする議論は起こるはずがないのである。
それにもかかわらず、そこに議論の対立が起こるというのは、その対立が気まぐれな主観から生じたことを示すものであり、そのような対立は真の対立ではなく、対立がないにも等しいのである。
このような見せかけの対立を、天倪によって和合させ、自由無碍の境地のうちに包容することこそ、真に永遠に生きる道なのである。
こうして、歳月を忘れ、是非の対立を忘れ、無限の世界に自在にふるまうことができる。
これゆえにこそ、いっさいを限界のない世界── 対立のない境地におくのである。
── 長梧子、よく喋る、笑。
途中から、ああ、こういうことを言おうとしているんだろうな、とは分かった。
ちょっとつまずいた箇所もあったけれど、何回か読み直し、そのまま、あまり考えず、いや考えたが、そのまま読んだら、わかった、と思う。
対立。むなしいものだよ。ほんとうに。確認するね。
そうなんだよなあ。
争うことのない世界、… 荘子の生きた戦乱の時代。
平和と戦争。
どっちが是で、どっちが非という、そんなものでもないんだろうな。
平和を是とすれば、諍いが非となる。
同じことだね。
それを越える… ニーチェか。
いや、超人、というほどのものでも…
同じか。ゆきつくところは。