人間世篇(三)

 孔子の言葉は続く。

「それに、こういうこともある。昔、桀王けつおうは忠臣の関龍逢かんりゅうほうを殺し、いん紂王ちゅうおうは忠臣の王子比干ひかんを殺した。

 この二人の忠臣は、いずれもその身の徳を修め、臣下の身分でありながら他人のもちものである民を慈しみ、臣下の身分でありながら上にある君主の心に逆らったものである。

 だから君主は、この二人の臣下の徳行が修まっていればこそ、これを陥れて殺したのだ。

 徳を修めるのは名を求めるためだから、この二人は名声を好んで身を滅ぼしたものである。

 また昔、堯帝ぎょうていは、そう胥敖しょごうの三国を攻め、禹王うおう有扈ゆうこの国を攻めたが、そのためにこれらの諸国は廃墟となり、その君主は死刑の憂き目にあった。

 それというのも、これらの国の君主が兵を用いてやめず、実利を求めてやまなかったからである。

 これらはいずれも名声と実利を求めたものの例である。

 お前も聞いたことがあるだろう。名声と実利の誘惑には、聖人さえも勝つことはできないのだ。

 ましてお前などは、なおさらだよ。えいの国へ行けば、きっと名利のとりこになるだろう」

 ── うん。まあ…。

「孔子」による「徳」とは、すなわち名声を求めることである、と。そのために徳を修めた二人の臣下は、殺されてしまった、と。

 それまでの「荘子」では、徳はそのように描かれていなかったはずだが、この語り部は孔子を登場させ、そこから徳=名誉欲を働かすものとしている。

 ああ、こういうことはある! 徳を修めれば、何か自分は特別な存在になった気になる── まわりの人間が卑しく見え、自分が何か「優」に立った気分になる、「比べる」ことで。そんな自意識をすることで。

 比べ、意識をしないような人間であれば、鼻高々にそんな得意にもならない、そんな人間は、それまでの「荘子」に描かれた「枯れ木のような・心が灰になったような」姿であろう。「知らないよ。私は何も知らないよ」と繰り返した人間の無知の姿だろう。

 この二人の臣下は、人間に備わった性質、名誉欲とか「他人より秀でたい」とする欲望をそのままに「徳」としてしまった。徳も人間本来に備わった「もちまえ」であるなら、それもやむないことだろう。

 すると、一体どうすればいいのだろう。

 営利、実利を求め兵を用いるのも徳であり、そうでないとするのも徳であることになる。徳と徳、もちまえとはたらき、これを結局、人間個人の内で取捨選別することこそを真のはたらき、徳とすべきか。

 それでは、対立するものからの「真」となり、それは真ではないものになる。

 そしてこの「荘子」の語り部は、そのような危険のある国、自らの身をあやうくするような所へ行くな、と言っているように聞こえる。