宋の国に刑氏という土地がある。楸・柏・桑などの木に適しており、よく育っている。
ところが、その一握り、二握りほどの木は、猿の止まり木を求める者がこれを切り取り、三抱え、四抱えもあるものは、広壮な家の棟木を求める者がこれを切り取り、七抱えも八抱えもあるものは、棺の一枚板を求める貴人や富商などが切り取ってしまう。
だから、これらの木は天寿を終えるものがなく、みな成長の途中で斧のために命を落とす始末である。これは有用であることが招く災難である。
ところで、厄払いの祭りをする時に、白い額をした牛や、上を向いた鼻を持つ豚、痔病のある人間は、犠牲として相応しくないために、これらを川に連れて行って、沈めることはできない。
これらのものが犠牲に向かないことは巫や祝がよく知っており、だからこそ不吉なものとされるのである。だが、このことこそ神人が大吉とするものにほかならない。
── 十四、十五と、ほぼ変わらぬ内容。
「災い転じて福と為す」とでもいうものか。
そも、災いとは人間がつくるもの。であるならば、という話か。そんなもんでもないか。自然災害? 自然は、何も考えていないよ。
生贄とは、まさに犠牲だよな。何のためのだい。
そんな気やすめより、そもそもの災厄を、災厄とするな、と?