だから、せいぜい一官職を修める知能しか持ち合わせず、たかだか一地方の人々に親しまれる程度の行ないしかなく、わずか一人の君主に認められる程度の徳を備えて、一国の臣下として召されるような者が、得々としてうぬぼれているのは、このウズラにも似た者であろう。
ところで宋栄子は、このような連中を見て、ひややかな笑いをうかべる。
彼みずからは、たとえ世をあげて誉めそやそうとも、一向に良い気分にさせられることもなく、反対に世をあげてそしろうとも、一向に気を腐らすこともない。
というのも、内にある自己と外にある世間の評価とが無関係であることを知り、真の栄誉と真の汚辱とが何であるかの区別を明らかにしているという、この一言によるのである。
彼は世間の評価に対して、心を煩わされることがないのだ。だが、その宋栄子も、まだ自分の立場を確立しているとは言えないところがある。
かの列子は、風のまにまに乗り遊び、飄々として、いかにも楽しそうである。彷徨い歩いて十五日経つと、再び我が家に帰る。彼は、我が身に幸福をもたらすものについて、何の関心も抱くことがない。
だが、その列子も、足で歩く煩わしさから解放されているとはいえ、まだ頼みとする他者── 風を残しているのである。
これに比べると、天地の正道に身を乗せ、六気の変化にうちまたがり、無限の世界に遊ぶ者に至っては、もはや何を頼みとすることがあろうか。
だからこそ、至人には己がなく、神人には功を立てる心がなく、聖人には名を得ようとする心がない、と言われるのである。
── うん、すごいな。これだけ饒舌に語りながら、「これがイイ」「これがワルい」と、何も言っていない。ただ彼はこうである、彼はこうである、とだけ淡々と言っている。
「私は」という主語もない。といって、これを書いている誰かはいるのだ。それにしても、まったく「私」が出てこない。
この(六)のお話は面白い。荘子の考え、思考の仕方が、ずいぶん具体的に書かれている気がする。とても、味わいたい。
宋栄子という人物もかなりの人格者と思えるが、荘子はまだ、さらに上乗せする。
列子はまるで自由そうに、だから自分の足から解放されたように、遊んでいるが、まだその身を任せる「風」を残している。
それに比べれば、… これは僕にはソクラテスの哲学、自己の内に学問があるという、またはブッダの説いた「誰でも悟れる・自分の内にブッダがある」とでもいったようなものに通じている気がするが…、天地の正道に身を任せ、六気の変化に遊び、無限の世界に遊ぶこと、無我であること、外と内から成る気配を感じつつ、それは無限である世界に遊ぶものに比べれば、まだまだだネ、という。