常季は続けて尋ねた。
「あの人の身の修め方をみますと、自分の知恵によって、自分の心を完成させ、自分の心によって、自分だけの不動心を完成させたにすぎません。
つまり、すべてが自分個人のことに限られております。それなのに、なぜ多くの人々が彼の周囲に集まってくるのでしょうか」
孔子は答えた。
「人は流れる水を鏡にしようとしないで、静止した水を鏡として、自分の姿を映すものである。ただ自ら静止するものだけが、静止を欲するものに静止を与えることができるのである。
地上に生命を受けたもののうち、ただ松や柏だけが、夏冬にかかわりなく青々としているように、天から生命を受けたもののうちでは、ただ舜だけが正しい生を得た人であると言えよう。
その舜が万人から聖人として慕われるのは、なぜか。ただ幸いにも舜のように正しい生を受けたものだけが、もろもろの生あるものを正すことができるのである。
天から受けた正しい生を、そのはじめのままに保っていることを示す証拠は、その人が何ものをも恐れないという事実である。
たとえば、勇士がただひとりだけで、大事のうちに突入して、益荒雄ぶりを発揮するのも、それである。このように、ただ名誉ほしさに一心になるものでさえ、何ものも恐れない勇気を示すものである。
ましてや、天地を支配し、万物を自分のものとし、自分の肉体を仮の宿とし、自分の耳目を形だけの飾りと見なし、知恵の分別を否定して、すべてを同一であるとし、その心は死を超越しているものにいたっては、もはや何を恐れることがあろうか。
たとえ死が免れえない運命であるにしても、かれは吉日を選んで、ゆうぜんとして昇天することであろう。
とするならば、王駘に弟子が多いのは、人々のほうから慕い集まってきたのである。かれほどの人物が、他人のことなどを気にするはずはないではないか」
── つまるところ、死。死ぬことが、怖いんだな、俺は。わけのわからない死は、わけのわからない生と同じだのに。不安。不安、あらゆる不安は、窮極のところ、死に繋がっている気がするよ。
死と生は同列だ。死は生がうまれるところ、生は死なくして、ないものだ。死によって生がうまれ、生によって死が生じる。
それなのに、どうして俺は生と死を分けるのか。分けてるんだよ、結局。事実と真実の違い? 死した人とは、もう会えない。死した人は、いつもいた場所に、もういない。それは死に違いない… ほんとうか? 「いない」ということ、これが死なのか? 違う気がする。
いないということは、いないということなのだ。死は、違う。死は、そういうことではない。
ほんとうに、死はあるんだろうか。ぼくの数少ない友達は、「死は、ないんじゃないかな。だってそのひとが心の中に生きていれば、生きているということになる…」と言った。
そうだと思う。実際、そうなのだ。
いない、ということと、死、は違う。
すると、生、というのは、…? いや、生というのも、だ。