孔子は答えた。
「私はかつて楚の国に使者として行ったことがあります。その時ふと、子豚が、死んだ母親の乳房を吸っているのを見ました。しばらくすると、子豚は急に目をぱちくりさせて驚き、いっせいに母親の死骸をすてて逃げ出しました。
それは母親が自分たちを振り向いてくれず、自分たちと似ても似つかぬものになってしまったからです。だから、子が母親を愛するというのは、その外形である身体を愛しているわけではなく、その外形を動かしている心を愛しているのであります。
戦死したものを葬る場合には、武功を表わす翣を贈り物にしませんし、足切りの刑にあったものは、もはや靴を大切にしようとはしません。いずれも、それを必要とする本がなくなったからです。これによっても、肝心なのは本であり、末ではないことが分かります。
また天子の侍女となったものには、爪を切ることをやめさせ、飾り玉を通すために耳に穴をあけることを許しません。また新婚の夫は、妻に戸外の仕事をやめさせ、働かせようとはしません。
外形を美しく保つためにも、これだけの配慮がされるのですから、まして美しい心の徳の持ち主が、他人から大切にされ、慕われるのも当然でありましょう。
今、哀駘它は、何も言わないのに信用を受け、功績もないのに親しまれ、他人にその国政を譲り渡そうという心を起こさせ、しかも受け取ろうとしないで心配させるといった人物です。
これこそ、きっと完全な才能をそなえながら、しかもその心の徳が表面に出ない人物であるに違いありません」
哀公が質問した。
「あなたが『完全な才能』と言われるのは、どういう意味ですか」
「死と生、存と亡、困窮と栄達、貧と富、賢と愚、毀りと誉れ、飢えと渇き、寒さと暑さ、これらはすべて人間の世界をおとずれる現象の変化であり、運命のあらわれであります。
日夜かわるがわる人間の眼前に現われ出ながら、しかもそれがどこから生じてくるのか、人知ではその根源をはかり知ることができません。
人知を越えたものである以上、このような運命の変化によって心の平和を乱す必要はありませんし、これを霊府のうちに侵入させてはなりません。それよりも、運命を自分に調和させて快適なものとし、つねに喜びをおぼえさせるものとして、日夜間断なく物と接しながら、いっさいの物を春のような暖かい心で包むべきでありましょう。
これこそ、あらゆる物に接しながら、心のうちになごやかな春の時をもたらすものであります。このような心境にあるものを、『完全な才能』の持ち主というのです」
「それでは、あなたの言われる『心の徳が表面に出ない』というのは、どういうことなのでしょうか」
「水平というのは、水が停止しきった状態のことです。停止した水が万物の準則となることができるのは、そのはたらきを内に保ちながら、これを外に出さないからであります。
徳というのは、万物と完全な調和を保つというはたらきをそなえているということです。このような心のはたらきを内に持ちながら、しかもそのはたらきを表面に出さない人間こそ、万物を慕い集まらせ、離れられないようにするものです」
孔子の話を聞いた哀公は、他日、孔子の弟子の閔子に向かって言った。
「はじめて私が南面して天下の君主となってからは、民を治める法を固く守り、ひたすらその生命を失わせることがないように心掛け、これこそ最上の政治だと信じてきた。
ところが今、孔子という至人の言葉を聞いてからは、私にはその資格がなく、ただ軽はずみに行動するばかりで、結局は国を滅ぼすものではないかと恐れるようになった。私と孔子とは、君臣ではなくて、徳をもって交わる友であると言えよう」
── 子ブタの話は、まさにそうだろうと思う。人間の子だって、目をパチクリ…いや人間の子は成長に時間がかかるから、ただ泣くばかりかもしれない。
しかしいい話が散りばめられてるなぁ。「道」のようなものを求めて読んでいたぼくには、いい話だった。
老子が「政治がなくても民は平和に暮らせる」といったような言葉も思い出す。為政ほど、不自然なものはないように思えてくる。荘子、そりゃ背を向けるよ…
一時期ぼくは、自宅でも開放して「荘子を読む会」でもやろうかと夢想したことがあった。が、こうして写経を続けてみると、ひとりで読むものだなぁという感慨が強くなる。そもそも荘子(モンテーニュも)、そんなに読まれていない、というより関心を持つ人がほぼいないように思えて。
孔子は、確かにいいこと言ってたよ。孔子がいなかったら、老荘も出てこなかったんじゃないか… とは、でも思えない。老子は、ぼくにはよく分からないけど、荘子の「大きなことを鼻から言わない」個人的な話から始まって、やがて小が大に、大も小もない交ぜになってこの世界一面に広がっていくような物語が、ほんとに大好きだ。
孔子がどうあれ、荘子のような思想、世界の見方は、必ずこの世に現われたろうし、必要とされていくことと思う。そう願いたい。