どのような人をさして真人というのか。上古の真人は、不幸な運命に見舞われても逆らうことなく、たとえ成功してもこれを誇ることなく、万事を自然にゆだねて、はからいをすることがなかった。
このような境地に達したものは、たとえ失敗しても後悔することがなく、成功することがあっても得意になることはない。
また、この境地に達したものは、いかなる高所にのぼっても恐れることがなく、水に入っても濡れることはなく、火に入っても熱さを覚えることがない。
その知が自然の道をのぼりつめることができれば、このような偉力を発揮するのである。
上古の真人は、眠る時は眠ることに安んじるために、夢をみることがない。
その目覚めている時は、日常の営みに安んじるために、憂いをもつことがない。
食事の時も、特別に何かがうまいと心がひかれることもなく、その呼吸は深く安らかである。
真人はかかとの先から深く呼吸をするが、凡人はのどの先で呼吸する。
すべて外物に屈服するものは、たえず圧迫を感じている。そのために、言葉を出す時も、のどにつまってむせ、欲望の深いものは、その心身の機能もあさはかである。
── いかに、成功だの失敗だのが、なんと小さなことか。
心頭滅却すれば、とか、そんな人為も要らない。そのままでよかったのだ、完全であったのだ、既に。
それを離れてしまう心、というもの、これもまた自然なのだとしても。
ひとりひとりが、人間のかたちであったからに、樹木の枝や雲、風、時の流れに等しく、それは完全であったのだ。
すべてを受け容れる、その「全」をみる目を、あたかも人間はもっているかのようだ。
「個」から、「全」がはじまる。