大宗師篇(五)

 上古の真人は、その表面は一応世間と同調するように見えるが、しかし徒党を組むようなことはしない。すべて自然に従うために、その知恵が足りないように見えるが、しかし他人の知恵を借りるようなことはない。

 常に孤独の境地を楽しんでいるが、そうかといって孤独に固執するものでもない。その心はうつろで無限の大きさをもつが、しかしそれはいたずらに華美を誇るものではない。

 一見すると、いかにも楽しそうに世俗のことに従っているかのようであるが、実はやむをえない自然の勢いにうながされているまでのことである。

 時に豊かな表情の動きを表わすこともあるが、実はいつでも自分の心のうちの徳を楽しみつつ、そこに静止しているのである。

 また世の人並みに心を痛めるかのように見える時もあるが、その心は高く世俗を越えており、俗事につなぎとめられるものではない。

 また、頑固に沈黙を守ることを好むように見えるが、実はただ無心のままに言葉を忘れているにすぎない。

 このような真人が、刑、礼、知、徳などの行なわれる世界に現われたとしよう。その場合にも、真人は刑を身体に備わる自然の機能の一部と見なし、礼は自分の身体を動かす翼と見なすであろうし、知はひたすら時の流れのままに従う働きであるとし、徳はもっぱら自然のままに従う働きとするであろう。

 刑を自分の身体に備わる機能の一部と見なすとは、刑を自然に働かせるために、何の抵抗も感じないで人を殺すことである。

 礼を自分の身に備えた翼と見なすとは、これによって自由に世を飛び回ることである。

 知を時の流れのままに従う働きをするというのは、あらゆることをやむをえない必然の勢いとして受け取ることである。

 徳をもっぱら自然のままに従う働きと見なすとは、いわば足のあるものとともに丘にのぼることであり、いたずらに高いところを求めて困難をおかすことをしないことをいうのである。

 すべてこれらのことは、真人にとって自然のことにすぎない。しかし世の人は、真人がほんとうに努力して行なうものだと思い誤るのである。

 このように真人は無心のままに動くのであるから、真人の好むことと好まないこととの間には、差別がない。なぜなら、いずれの場合でも自然のままに従っている点では同一だからである。

 また真人にとっては、同一のものはもちろん同一であるが、同一でないものもまた同一である。その同一であるというのは、無差別の自然に従う場合であり、その同一でないというのは、差別の人為に従う場合である。

 だが、いずれの場合でも、与えられたものに従うことには変わりがない。したがって、ここでは自然と人為とが相克し矛盾することがない。このような境地にあるものを真人と呼ぶのである。

 ──「真人」の解説。

 違和感を覚えたので、森さんの注釈をひもとけば、刑、礼等の世俗の形を一応肯定はしているが、このような人為を避けられぬものとして肯定するのは、荘子本来のものではなく、「左派」の書いたものであろう、とのことだった。

「何の抵抗もなく人を殺す」も、自然の働きに従って殺すまでのことであるから、となるが、やはりこれは「内なる自然」に従うまでのことで、初期の逍遥遊篇にあったような「大いなる大地的自然、宇宙的自然」に従うのとは、だいぶ違うように思う。

 饒舌に、よくしゃべるこのお話の「荘子」。

「かたくなに沈黙を守っているように見えるが、言葉を忘れているだけである」には笑う。言葉どころか、そこに自分がいることさえ、忘れているのではないか。

 昔々のインドでは、現代でいう「知恵遅れ」とか「障害者」とか、言葉尻だけ捉えれば差別され、「健常者」(!)と最初からラインを引かれる存在も、「神々しいもの」「神の使いのような存在」としてあつかわれたという。

 それはそれで、また特別視する差別でもあるだろうけれど、今のようにきっちりシステム化されず、慈愛、尊重、崇めるような心の働きが、その存在を大切にするという、そんな態度が一般にあったということが凄いことと思う。

 神なんていうものも、全く理解できぬものであるから、「常人(自分たち)と違う」「未知なる存在」として、現代でいう障害者的な人を神のようにあつかう、その心根は、同じ発祥であるように思える。

 バカにするとか哀れむでなく、「崇拝する」ような気持ちから相手を尊重する。

 畏れ… そりゃ異形のもの、理解できぬものが現われたら恐いと思うだろう、でも、それを恐れとせず、畏れとする、そんなふうに心を働かせていたのかな。

 しかし森さんのいう「左派」的な人が書いた荘子は、確かに荘子の思想と被っている箇所はあるものの、どこかつっけんどんな鋭利な刃物が見え隠れする。

 自分にも、そんな時がある。気をつけなければ、と思う。