応帝王篇(二)

 肩吾けんご狂接輿きょうせつよに面会した。すると、狂接輿が尋ねた。「日中始にっちゅうしは、何かお前に話したかね」

 肩吾は答えた。

「私に、こう話されました。人の上に立つ君主は、自分の考えに基づいて百般の制度をつくり出すがよい。そうすれば、これに服従し教化されないものはないだろう、と」

 これを聞いて、狂接輿は言った。

「それはほんとうの道ではないよ。そんなことで天下を治めようとするのは、ちょうど徒歩で海を渡り、素手で大河を掘ろうとしたり、蚊に山を負わせようとするようなものだ。

 聖人の政治というのは、制度によって外物を治めようとするのではなく、まず自分のあり方を正したのち、これを人に施すのであり、このようにしてその政治を確実に完成させるものだよ。

 それに、人民のことにいちいち気を配る必要はないよ。鳥は高く飛んで矰弋いぐるみの害を避けることを自然に心得ているし、はつかねずみは神社の壇の下に深い穴を掘って住み、人間どもが煙でいぶしたり掘り探ったりする危険を避けることを心得ているよ。

 お前は、この二つの動物が何も知らないとでも思っているのかね」

 ── 政治など要らない、と言っているようなものだ。まあ、ねえ…。そこら辺りのことは「中国思想史を想う」にも書いたけど、老子は政治の手の届かぬ地方の農村で、平和に暮らす人々をその目に見たという。

 かれらは等しく貧乏であり、しかし「メイファッ」(仕方ない)、つまり「あきらめ」を実地で行き、全くそうするしかなかったとはいえ、誰もがみな貧乏であったゆえ、助け合い、裕福な者などいないのだから盗人もおらず、物騒な事件なども起こらず平和に暮らしていた── という。

 で、老子は、人民に平和をもたらす為政の条件として「民を裕福にしないこと」「便利な物を与えないこと」と記した、と。

 まったく、動物は必要以上に殺し合いなんかしない。ライオンも腹が減っていなければ獲物に飛びかかったりしない。人間だけが、腹具合に関わらず人間を殺し続ける。

 もし人間がほんとに平和の郷をつくれるとしたら、「平等な貧乏」にある状態であるのかもしれない。為政者は、何もしない。民に何も与えない。ただ国交のために他国の同業者と握手するだけでよい。

 でも大抵、そんな為政者、権力者が国家間の争いをおっぱじめる。としたら、なおさらに無用の長物だ。といって、その長物を求めて、争いたいのが人間であるなら、もうお手上げかしら。