あくる日、列子はまた神巫を連れて壺子に会った。すると、神巫は壺子の前に立つか立たないかのうちに、思わず我を失い、あとも見ないで逃げ出した。
壺子が「あとを追え」と命じたので、列子も追いかけたが、見失ってしまった。仕方なく帰って壺子に報告した。
「神巫は影も形もなく、どこかへ消えてしまいました。とても追いつくことができません」
すると、壺子は言った。
「先ほど、わしは神巫に未始出吾宗の相を見せてやったのだよ。これは、自分の根本にある道から離れていない境地だ。
この境地では、おのれを虚しくして、ただ物の推移するままに委ね、自分が何者であるかも知らず、ただひたすらに随順することを事とし、ただ波や流れのままに漂うことを旨とするものである。
あの神巫は、このように千変万化する姿を見たので、恐ろしくなって逃げ出したのであろう」
このことがあってのち、列子は自分の学問が全くなっていないことを悟り、そのまま家に帰った。
そして三年間ひきこもったままで、一歩も外に出ることがなかった。妻のために炊事をしてやり、豚を飼うにもまるで人間を養うように大切にして、差別の心を去るようにつとめ、特定のことだけに心ひかれて親しむことがないようにした。
このようにして人為を削り去って素朴の状態に返り、まるで心のない土くれのような姿をしたまま立ち、すべてを混沌に委ね、そのまま生涯を終えた。
── 列子は、一体どうしたのだろう。何とも、淡々と書かれたラストである。
たぶん、それまで彼が習ってきた学問、勤めてきた勉学、「それは何の役にも立たなかった」と失望したショックもあるかと思う。が、それはほんとに失望、絶望、失意に陥らせるものだったろうか。
そんなことはない。彼は、それに気づいたのだ。今までしてきたことの、無意味さ、「何の役にも立たない」知識、見聞、その身をやつして精進してきたところの、土台からひっくり返され、まさに「虚」そのものになったのだ。彼はそれを「体験」したのだ。
彼は、「完成された」まま、生涯を終えたのだ。
万物斉動とは、混沌であり、虚無であり、変化を続けてやまぬ生であり、また死である。それらのものが一体であること、これは厳然たる事実、真実であって、一体であることを観じる自己からも離れ、一体へ一体となること… それを列子は遂げたのだと思う。
もちろん、それは死ぬ前から、彼の達していた域であった。あの壺子が自在に見せた術を目の当たりにしてからの。
哀しい、淋しげなラストだが、列子はみごとな死、あっぱれな死を行ったと思う。