応帝王篇(六)

 あくる日、列子は神巫を連れてきて、壺子に会わせた。占いが終わって外に出てから、神巫が列子に告げた。

「お気の毒ですが、あなたの先生は死なれます。生きる見込みはありません。それも十日を出ないでしょう。私は怪しい兆しを見たのです。先生に、再び燃えあがることのない、湿った灰の相を見たのです」

 列子は内に入り、ぽろぽろと涙を落して襟を濡らしながら、壺子にこのことを告げた。すると、壺子は言った。

「さっき、わしはあの神巫に地文ちぶんの相を見せたのだよ。つまりこれは大地のようにどっしり構えて、身動きもせず、居ずまいを正すことさえしない状態だ。

 あの神巫はきっと、わしの杜徳機ととっきの術── 徳の発動をふさぎとめる境地を見たはずだ。ためしに、もう一度、あの神巫を連れてくるがよい」

 あくる日、また神巫をつれて壺子に会わせた。占いが終わって外に出てから、神巫が列子に言った。

「おめでたいことです、あなたの先生は、私に会われたおかげで、すっかり回復されましたよ。今は全く生気が蘇りました。この前は、先生が機能をふさぎとめられた状態を見たのですよ」

 列子は内に入り、このことを壺子に告げた。すると、壺子は言った。

「さっきは、わしは天壌あめつちの相を見せてやったのだよ。これは、まだ名もなく形もない状態で、生気がかかと・・・の辺りから発動してくるのをいうのだ。

 あの神巫は、きっとわしの善者機ぜんしゃきの術── 天地の間に善である生気が次第に生まれる境地を見たはずだ。ためしに、もう一度連れてくるがよい」

 あくる日、また神巫を連れて壺子に会わせた。占いが終わって外に出てから、神巫は告げた。

「あなたの先生の相は、どうも一定しないで困る。あれでは、私でも見立てることはできません。一度心を一定されるように伝えて下さい。それからもう一度見ることにしましょう」

 列子は内に入って、壺子に報告した。すると、壺子は言った。

「さっき、わしは太沖莫勝たいちゅうばくしょうの相を見せてやったのだよ。これは虚心のままにいっさいを受け入れ、優劣の差別をつけない境地だ。あの神巫は、きっとわしの衡気機こうききの術── 生気を平らにし、いっさいを平等にする心境を見たはずだ。

 そもそも大魚の集まる淵があり、静止した水の集まる淵があり、流水の集まる淵がある。わしが見せてやった三種の心境は、この三つの淵に当てはまるものだ。

 だが、淵には九つの種類があり、そのうち、わしはまだ三つしか見せていない。ためしに、もう一度連れてくるがよい」

 ── 生命は「気」の集合体であるというから、その「気」を自在に操った場合の話と思う。占い師の「お告げ」に、一喜一憂、涙をぽろぽろ流したりする列子が可愛い。

 合気道とか、ナントカ武術という類いのものも、こういった中国の古典を発祥とするのだろうか。昔からあったに違いないが、「気」というのは不思議なものだ。

「病は気から」「気の持ちよう」「元気があれば何でもできる」等の言葉は、全くのウソとは思えない。むしろ、ほんとにそうだ、と思えることの方が多い。ただこれを、自由自在にモノにするというのは、かなり不可能かと思えるが…。

 しかし「気分」も気であるなら、この壺子のように意識的にコントロールはできないにしても、多くの人が「気を変化させ続けている」(変化する気を持ち続けている)ことになるだろう。

 荘子を読むようになってから、それまでにも増して、外を歩く時、よく空を見上げるようになった。まったく、雲の形は面白いし、その青さに心が洗われる思いがしたりする。

 雲も気分のようなもので、一定しない。でもその上には青い空があって、歩いている自分の足は地に着いている。動く空と動かない地の中間に、自分はいるんだなぁ、などと思うと、意味もなく嬉しい気分になったりする。

 存在というものの微妙さを、何となく感じてしまう時がある。

 このお話も、「自然」というもの、「大地」であり、まだそれが形もなかった頃の、生気がやっと芽を出す頃の「無」であり、また虚にしていっさいの差別をしない、無差別で平等の「原初の頃」をその身に備えた(すでに備わっている?)人間のことを描いたのだと思う。