名声の偶像となるな。策謀をたくわえては出す府となるな。仕事の責任者になるな。知恵の主人となるな。
無限者とあますところなく合体し、形のない世界に遊べ。天から授けられたものを悉く受け取り、それ以外のものを得ようと捜し求めるな。ひたすら虚心を旨とせよ。
至人の心のはたらきは、ちょうど鏡のようなものである。去って行くものは去って行くままにし、来るものは来るままにまかせる。
すべて形に応じて、その姿を映し、しかもこれを引き止めることがない。
だからこそ、あらゆる物に応じながら、しかも自分の身を傷つけることがないのである。
── 鏡というものは、全くそのような存在だ。ただそこに在って、前を通るもの全てを映し出す。かれは、それを見る。かれは、そして何もしない。ただあるものを映しているだけである。そして確かに、そこに存在しているのだ。
このような「生の在り方」── これをここで荘子は「至人」と呼んでいるが、ちょっと考えれば、誰もがそうしている… 「他者はコントロールできない」という点で。
キルケゴールは「相手を変えようとするのは愛ではない。こちらが、変わっていくのが愛なのだ」と言っている。鏡は、そんな意思さえなく、変わっていく。目の前に来る相手へ、ただひたすらに。
だが、自分の生命だけは、その寿命という意味での生命だけは、いくら鏡でもコントロール不可能だ。万物はすべて、そのように出来上がっている。そこにはもちろん、差別など存在しない。物、者、モノ、もの、すべては平等である。
限りないものは存在しない。しかし、「ない」というからには「ある」がある。
が、そのような相対を越えて、そこに── 宇宙やら地球やら、この世かの世をつくった造物者、道… が確かに目に見えず、手にも取れず、「在る」という。
われわれはそれら万物、在りと在るものの一つにすぎない。そうして「一」といえば「二」が生まれ、「三」が生じ… しかし、それら全体を包容するものがある。
つぶさに見れば、足元の石コロ一つ、そこらに転がる紙クズ一つが、包容するものそのもの、全体の一体であり、一体の全体である。
この「全」を運命とし、また自然ともするが、この「一」もまた自然であり運命である。
抗うことなかれ。これに従って行くがいい… というところだろうか。