私が、何か人を怖いと思うのは、人と対する時、何かを過剰に、その相手に対して「出そう」とするからだ。
弱っている相手を見たら、その相手と対したら「元気づけよう」「元気づけたい」みたいな気持ちになってしまう。
その元の気… 私の気じたいが、弱いのに。
歩けもしないのに、走ろうとする。そうして人と対するから、疲れてしまうのだ。
そしてそれが自然と思ってきた。確かにこれは、「内なる自然」だろう。
内なる自然が、外なる自然と対した時、そっちの自然へ、足早に行く。
その時、「私」はそっちへ行っている。それまでの私はどこ行った。
問題、私にとっての問題は、「過剰に」近づこう、過剰に相手へ近づこう、そうして自分がどこかへ行ってしまうことだった。
だが結局、たぶん人も、そんなふうに、そういうふうに人と対しているのかなと思うよ。
だって相手がいるんだから。
だから、いいんじゃないかネ。
過剰になろうが臆病な犬になろうが
それを観じる、…他者も自己もふくめて、観じられる、観じている、この自分が、そして相手がいる、ということは。