「コルサル」という週刊新聞があったね。有名人、著名人をコキおろし、「実は彼らも、われわれと同じ人間なのだ」ということを云い、民衆がソウダ、ソウダとにんまりすることを当て込んで、結構読まれていたという新聞。ポンチ絵もあれば、やたら小難しい論文があったりと、とかく賑やかそうな大衆新聞だったろうか? よく読まれるよう、うまくやっていたのは確かだね。
きみが、あの新聞に挑発文を送ったのは、「一を見て十を感得する」…そのうちの六がきみの思い込みによる情熱だったとしても… きみにして、せざるをえなかったことだった。
自業自得って、あまり良い意味で使われていないけれど、実のところ、大体のひとが、そうなんじゃないかね?
しかし、このコルサル事件について、わたしは詳しく書きたくない。ウィキペディア先生を見れば分かるだろうし、識者の見解が、きっと正しいだろうから。ただ、きみが不憫でならない、いや、不憫というと語弊がある、事件後のきみを「世界の名著」で知るにつけ、初めてきみがわたしの中に入ってきた。
ポンチ絵で、左右のズボンの裾が、片方が短く、片方が長い、そしてシルクハットを被り、杖を持ったきみが、風刺されてしまった。これは、きみの思想を表わした姿だったろう。
「ほら、『あれか、これか』がやって来るぞ」子ども達まできみを馬鹿にし、カフェに入ってもまわりから嘲笑の目で見られ、通りを歩いていてもいつのまにか人が現れ、きみは嘲られてしまった。
その時だよ、わたしに、どうしてか怒りが込み上げてきたのは。キルケゴールをバカにするな! 自分でも、わけのわからない憤激だった。あの時、わたしは確信したんだ、あ、オレの中に、きみがいる、って。
あのポンチ絵の、左右の丈が違うズボン、これはいみじくもきみの思想的な偏りを言い当て、また民衆のきみへのイメージと一致したのだろう、きみのズボンは、まるできみ自身であるかのようにひとりで歩き、ズボンばかりが世に受け入れられたようだった。
「私の最大の作品さえ、私のズボンほど評判にならなかった」
「私の全生涯も、私のズボンが今もっているほどの意義をもつに至ることは、けっしてあるまい」
きみは、本気で嘆いていた。
だが、ごめん、セーレン! きみの、この嘆きを聞いて、わたしは笑ってしまったよ。
きみは、いつもわたしを複雑な気持ちにさせる。モーツァルトの音楽のようだよ。悲しい調べなのに、なぜか笑えるような気分になったり、暗いのに、明るくなったりさせられる。こういう、まるで方向違いの感情、心情的なものが、ひとつになっている作品は、真実だと思うよ。同時進行しているんだ、ひとつの中で、逆のものどうしが…。
きみはこの「コルサル事件」から、いくつかの自業自得を体験した。わたしが注目したいのは、きみの「水平化」という言葉だ。
誰もが同じ人間だとする、いわゆる「平等」といえば聞こえがいいが、きみはそれを「水平化」と呼んだ。素敵な表現だよ、きみは自分でも「これはいい警句だろう!」と自画自賛を他の文中内でカッコ内に書いていたけれど、この水平化は、ふかいと思うよ。
平等化は、たしかに水平化だよね。
一人一人、違う人間であるのにね。
これについては、そうとう考えないといけない。きみの立場から考えるのは簡単だけど(何しろきみの研究家がいるのだから!)、きみをわたし自身に引きつけて考えないと… ましてきみはわたしの中にいるのだからね。そういう読み方をするのがきみに対する対し方で、それで研究家たちも大変らしい。
でも、好きなんだよな、その大変さが。