墨子、その名の由来は、当時罪人には入れ墨が施され、この人にもそれがあったからだ、という説があるが、定かではない。
その思想は「兼愛」というもので、「人間を無差別に愛そう」とする博愛主義的な思想であったということだ。
孔子の「家族愛」は家族限定のものである。そんなせせこましいものでなく、愛は人類的な、もっと大きなものである、という主張。
この墨子の考えは、宗教的な色合いも強く、「天志」(天の意志)なるものを唱えていた。
「争い、戦争のない平和な世界こそ、天志の望むものであり、われわれ人間はそのような世界をつくり、そこに生きなければならない!」
天の意志にそむくことなく生きることに、人間の幸福は存在する、と説いた。
これも、孔子の儒家たちへの反発を大いに含んだ、人間存在への態度だった。
当時、儒家たちは冠婚葬祭、儀礼に基づいて行事を行ない、多額の儲けを得ていたという。家族の誰かが死んだらば、数年は喪に服さなければならない制度もあったという。
その間、残された家族は収入も心細く、まさに儒家の金儲けのためにあるだけのような、冠婚葬祭の形だけの儀礼。
確かに孔子は形式を重んじた。しかし、それも「心」があってこその形であった。
だが、弟子たちはまさに「形骸化」させてしまった。形だけ済ませれば、ヨシ。孔子も、儀礼を重んじよと言っていたではないか。
墨子を中心とした一派は、当時の君主が贅沢をし過ぎることを非難し、その根本思想である孔子の教え、民を苦しめるだけの心ない形式主義に、真っ向から異を唱えた。
その墨子の思想が最も強固に体現されたのが、「不戦論」であった。
領土欲しさの侵略戦争に対しては、徹底して反対の姿勢を貫いたという。だが、不正を行なう王、為政者、権力者を討つための戦いは、否定しなかった。
墨子には「弱者を守る」という基本姿勢があって、弱小国が強国から侵略を受けた場合、依頼を受けて積極的に防衛戦線に参加した。
かれは「防衛の名人」ともいわれ、集団を統制し防御力を高めることに、ずば抜けて長けていたという。物事を固く守ることを「墨守」とよぶ、語源にさえなっている。
その防衛戦術の巧みさは、しかし墨子たちに「戦争請負業」の業者的役割を課すことになってしまった。
儒家が「冠婚葬祭業」でボロ儲けしていたのと、皮肉にも同じようなかたちに陥ったが、墨子一派は質素な生活を続け、かれらの中に太った姿は全くなかったという。
人間のための労働を第一とする面もあって、何しろ弱い者の味方なのだから、氾濫しそうな川の治水工事、民の歩く道の整備など、まさに身を粉にして働いていたといわれている。
戦国時代、最も盛んだったのが儒家であったが、この墨家はそれに次ぐ社会的勢力であった。
「兼愛」の思想が人々の共感を呼んだが、その「天志」である神のごとき存在は、一神ではなく、山や川、氏神といった、その土地土地にある「八十万の神」であったから、多くの人が親しみ易かった。
墨子の死後、墨家は分裂し、あとを継ぐ者はいたにはいたが、初代の墨子本人の意志は受け継がれることなく終わった。
戦乱の時代が終わり、かれらの経済的基盤であった「戦争請負業」が、必要とされなくなった現実もあった。
一神教の宗教的人間は育たず、政治的人間が多く、現実主義者の多い中国の土壌にあって、新興宗教的な墨子集団は、きわめて異質な存在だった。
墨子の「兼愛」思想を、世界で最初に高く評価したのは、キリスト教徒のトルストイであった。