「きみとは、全然違うからね」
Kが淡々と言った。
少し残念そうに聞こえたのは、「自分と全然違う」ことを残念に思っていたからだろう。
Kは「自分との違い」を包容する、寛大な男なはずだった。
「愛は、相手を変えようとしないこと。自分が変わろうとすること」とよく言っていた。
だが、いかに心のひろい彼としても、まだその境地にまで行っていない。
その手前の、「相手を変えようとしない、そして自分も変わろうとしない」男だった。
彼の、私に対する愛情は、一種のあきらめ、諦念から始まっていた。
おたがいに違うことを認め、おたがいに言いたいことはあるけれど、その違いをつくる人間的な違い・根本的な違いには目をつむり、表面上だけうまくやる、仮面夫婦の様相も呈していた。
それは、彼が私をあきらめたから、できることだった。
つまり、許していたのだ。
そして、それしか彼にはできなかったのだ。
だが、この「寛容さ」が、私に「もの足りなさ」を感じさせる一因にもなっていた。
彼、Kは海綿体のような男で、自我という突起物は確固としてありながら、全体的にスポンジみたいに柔らかい人間で、よく言えば大らか、わるく言えばハッキリしない人間だった。
したがって、私のような自己主張の強い人間は、「自由」を与えられた気になった。
彼が、私のすべて言うことを笑って受けとめ(ているかのように見えて)、彼は彼のなかにほんわり私を吸い込む。
吸い込まれて、私は一層、自由を与えられた気になって、せっせと自分を主張する…
「愛した男に尽くしたい。尽くすこと、それが女の幸せというものよ。
でも、あなたには、尽くしたくても尽くせない、もどかしさを、私は感じてるの。
ぐにゃぐにゃした、こんにゃくみたいなあなたからは、こちらがどんな刃物で突き刺しても、何の手ごたえもないの…。
それがあなたのすごいところだと思うけれど。
もっと情熱的に愛してほしい、って思う時もあるのよ」
私は彼に、言いたいことをどんどん言う。
「人間って、自分で自分を、好きで苦しめるものんだから…」
そう言った時、彼は、「うん、ほんとにそうだよね」と私を真っ直ぐ見た。
「好きで自分を苦しめていることを知ってる人、少ないよなぁ」
私は同意する、「私たちの体験することは、ぜんぶ自分自身の体験なのにね」
こういう微妙な思考が、おたがいにできている感じが、彼と私の貴重な接点だ。
「結婚なんかしなきゃよかったのかもね。私、キツいでしょ? 一緒に暮らさなければ、やさしい他人のままでいられたのに」
「やさしい他人か…」彼は、少し目を伏せて言う。
「さあ、そろそろ帰らなきゃ」
「うん、また来てね」
「うん、ありがとう」
私たちは、会うたびに、こんな「夫婦になった芝居」をしている。
彼と私は、恋に落ちないだろう。
彼は私を強いと思っているし、私を強くさせているのが自分であることを知っている。
私が彼を自由にさせないことを、私も知っている。
私たちは、知りすぎているのだ。
「でも10年ぶりだったね」
「うん、ほんとに早いわね」
「10年なんて、またすぐ過ぎるんだぜ」
「うん。また、10年後に会おうか」
またね。
うん、また。
「久しぶりに会えて、よかった。人間って、本質的に変わらないね」
今年、彼から来た年賀状には、そんな一文が書かれていた。