本屋に行くことも少なくなった。
今、どんな本が売れ、何が世間に受け入れられているのかも知らない。
何年か前、絵を描いている友人に「ネット小説では『異世界ファンタジー』ばかりだ」と言ったら、「映画もそうやで」と、そのヒットしている何本かの名前を教えてもらった。
しかし本というのは、今も売れているのだろうか?
マニュアル本とか、「こうしたら幸せになれます」系、現実に即した役に立つものは、まだ強いのだろうか?
普遍的な領域にありそうな「美容と健康」と「料理」は、どうなっているんだろう。
雑誌と本では、また違う。本は、内容が変わらぬまま、店の棚の一角にいつもいる。
何十年、何百年前に書かれた本が、今もそこにジッとしている。
好きな作家が、変わらずにいるのを見つけると、嬉しくなる。
音楽では、どんなものがヒットしているんだろうか。
一時期、昔の曲をカバーしたものがよくFMから流れていたが。
「芸術」(と言っては言いすぎか。娯楽、と言うのも軽すぎる… それがなくても、べつに生活に困らないもの、と定義しよう)の分野は、枯渇しているような気がする。
出るべきものは、出尽くした、というか、だいたい人間が考えることは、似たりよったりで、あとはどうそれを「表現」するかの「仕方」が違うだけのような気もする。
もし人に才能というのがあるとしたら、それを形に表わして初めて才能になるだろう。
なぜなら「才」は、それを見る他者が決めることだから…。
あとは、所詮それを見る人の好み、趣味によるということ。
万人に好かれる作品なんて無いだろう。
(でも、つい先日、近所の和食屋がミシュランガイドで二つ星を獲得して、店の軒先に胡蝶蘭が沢山飾られていた。
立ち止まって眺める人も多く、ああ、これからこの店は、「ミシュランに認められた店」として、頭でここの料理をほとんど万人が食べるんだろうと思った)
好みといえば、日本の小説家でぼくが大好きなのが椎名麟三、大江健三郎、山川方夫だ。
この作家たちの共通点が、自分にとって「信じられる」というところにあること。
荘子、モンテーニュも「信じられる」。
この二人はエッセイだから、本人が登場し、信じられやすい。
小説は「つくられたもの」だから、でも、それでも信じることができる作者かどうかが分かる。
エッセイにしろ小説にしろ、言葉というつくりものにつくられているわけだから、どっちもウソといえばウソなのだ。
それでも、好きな作家というのは、ぼくには「信じられる人」となる。
何か、わかる気がするのだ。その言葉がたとえウソであっても、その向こう側にいる「人」が。
好き、というのは、信じる、ということかもしれない。
そして信じた読者が、期待通りの作品を与えられなかったら、「ウラギラレタ」「失望した」などといって、サッサとその作者をキライになってしまったりする。
多少のなごりをもって。そして別をあたる。その回転が、今はとても早い気がする。
ぼくは好きになった作家にとことんノメリ込むので、一度好きになった作家は、とことん読んでしまう。
何回も何回も繰り返し読む。
全然つまらないものを書かれたとしても、その人の「一部」として読む。
全然読まない作家の作品は、ほんとに読まない。
沢山の本を、だからいっぱい読めなかった。
限られた作家を、いっぱい読んできたつもりだけれど、でも、やはり好き/嫌いに捉われずいっぱい本を読める人は、世界が広いと思う。
運命のカミサマにも、きっと好みや趣味があるのだ、
「人を、選ぶ」という…。