ブッダの考え方に、「無我」というのがある。「これが自分だ」と思っている自分が、自分をつくっている。観念の上にしかないのが「自分」というもので、その観念は頭の中の「思考」によってできている。ところが、その思考というものも、思考が思考しているだけで、自分というものが思考しているのではない。目も耳も舌も、視覚、聴覚、味覚、その部位部位にあるものが、各々、そのしごとをしているだけで、その各所に「自分」はいない。内臓も、それぞれの臓器がそれぞれに働いているだけである。
だから、それらをひっくるめたこの身体も、そして心も、自分のものではない。自分のものであれば、思い通りに動くだろう。そうならないのは、自分のものでないからだ…
身体は、生命の、この世における一時の宿のようなもので、たまたま人間は人間という形の容器に入っているにすぎない ──
本来、生命は形のないもので、目に見えないものである。とらえどころもなく、手にも取れない、すなわち「無いもの」だ。そして「無い」というものが「有る」ということ。
「天は意思も心も持たず、雨を降らし、陽を注ぎ、万物を生み、育てる。地も同様に、われわれを育てようなどと考えてもいず、ただそのままにあって、われわれをのせているだけである。人間も、この自然から生まれてきたのだから、自然に反することをすれば、しっぺ返しをくらう」(老荘思想)
動植物、川、海、山、これらは、「自ら然るべきもの」、すなわち自然として在る。人間も同様で、個人個人が、自ら然るべきものとして存在している。何も「他然」になる必要はどこにもない。自然、自ら、そのままで然り。それでいい、何も憂うこともない……
老子と荘子、ブッダは、哲学と宗教のカテゴリーが違うだけで、根っ子は同じような考え方をしている。老荘はその根っ子の状態を「道」、ブッダは「涅槃」とした。要は、「本来の自然に帰れ」「自然そのものになれ」というニュアンスに聞こえる。
この現実社会の中で、そのようなことを体現するのは不可能に近い。が、ただ気持ちだけでも、そもそも気持ち、手に取れない「意識」によって存在していることを知るのだから、その意識的な心だけでも「自然」へ向けるだけで、ずいぶんと苦しまなくて済むような気がする。
物を見る自分の精神的な立ち位置が、生きて行く上で最も肝心なもののように思える。物の見方が、人生をつくっているように思える。「自分など、なかった。」「何も、なかった。」それが自然であるように思える。
「無」、そう、老子は「無」というものを発見した。これは数学の「0」の発見に等しい、とんでもない発見だった。
荘子は、無があるのならば、無がなかった時もあっただろうと言った。さらには、無がなかった時がなかった時もあっただろう、と。そして「われわれは、知ることができない。その知ることができないものによって、われわれは存在している」と言った。
「知ることのできないものは、知ろうとしないことだ」と、知ることができること。それが人間の最高の知恵だという荘子は、一見、ソクラテスにも通じている。
ブッダも老荘も、リアリストで、よく現実を見つめた。ただ、その見つめ方が、「超」のつくほど熱心だったため、常人をはるかに飛び越えてしまったように思う。
これを、自殺する人にこじつければ、その人も、常軌を飛び越える、つまり2500年前の賢者たちの、「超」のつくほどの、現実への視線、その過剰なまでにこだわる性能を所持していることになる。ただ、その方向が、自虐…やはり自殺は自虐だと思う…に向かってしまう。
単純に、もったいないような気もしてしまう。