過呼吸

 先日、久しぶりに過呼吸になった。仕事中に。
 それは、まったく不意にやってくる。
 胸の、まんなかあたりが急に重苦しくなる。
 得体の知れない塊が徐々に確実に凝固して、圧倒的に胸部を圧迫してくる。

 この塊の到来している数分間は、もはや無力そのものになる。
 そのくるしい時間が過ぎるのを、じっと耐えるしかない。
 で僕はその時、人目のつきにくい場所へ行って作業をしているふりをしてジッと動かず、しゃがみ込んでいるだけだった。

 といって、これは死に至る病でもなさそうで、この症状が過呼吸にあたるのかというのも実は定かではない。
 むかし、職場の友人が休憩中に自分の持ち場でひとりしゃがみ込んでいるのを見て、どうしたのかと声を掛けたら、過呼吸だとの答だった。

 その症状が僕のそれと一致したので、あ、オレも過呼吸なんだ、と判断しているだけなのだが、その友人の恋人も過呼吸で、いちど気を失ったかどうかして、救急車で運ばれた、というような話も、一緒に帰りのバスを待つ途中に聞いたのだった。

 原因は、心的なものによるところが大きいらしい。
 だからコレといった予防の仕方も漠然としているのも無理はなく、せいぜい「ストレスをためないように」と治療医からいわれるのが具体的な話であるらしい。

 今までもよく思ってきたことだけれども、心的なものによるところにその因があるとするなら、それはどんな病名もそぐわず、薬等の物質による治癒の対象にはなり得ないだろう、ということ。

 かたちのないものをもつものに、かたちのあるもので対処するのは、根っからのスジの違う動きのように感じられる。

 だが、それでも、かたちのないものから、かたちのあるものへ成っていくことも確かだろうと、感じるのも、かたちのないところで感じている。

 しかし過呼吸は(と僕が自己判断している症状は)、なかなか、ありがたいことに苦しい。
 身体は、ただ無心に身体であって、その身体にある僕というものらしきものが、苦しいと感じるから苦しい、というのが正確な書き方かもしれない。

 さらに思えば、そういう時間にいる、その時間のなかにいるとき、苦しい、ということだろう。… 言い訳、にもなり得てしまうが。

 とにかく時間は過ぎる。

 こないだの日曜の深夜にも、過呼吸の徴候があった。
 胸の塊が、凝固したくてウズウズしているのが感じられた。
 僕がウズウズしているのではなく、身体が僕に関係なくそうなっていたのだ。
 僕のできたのは、あの苦しみがやってくるのかな、と不安に耐えるだけ。

 … 苦しみって、手が届かないから苦しいんだな。
 しかも自分の胸の内にあるのに、手なんか届かないんだ。
 …こいつは一体、何ぞや、ってことだよな。
 そんなことを、眠れない僕は誰かに喋っていた。