そう、吉本ばななとかも読んだなぁ。お父さんは「共同幻想」とかいう素敵な言葉をつくった(?)… 哲学者だったのかしら。
「船乗りクプクプの冒険」? 北杜夫か、あと星新一、けっこう読んだと思うが、吉本ばなな同様、なんにも残っていない。
遠藤周作もちらほら読んだが(友達がくれた「沈黙」は衝撃的だった)、どうも、やっぱり残っていない。
軽めな、といっては語弊があるが、一晩で読めるような本、そういう本は、僕にはあまり残らないようだ。
好きな友達が「これ好きだからおススメ!」みたいに薦められた本でも、やはり好み、合う・合わないがある。友達としては「合っていた」はずなのに、だから本の好みも合う、というわけには行かないようだ。
影響の受け方、その本から何を自分が得るか、これはほんとに人それぞれで… こればかりは、何とも言いようがない。
「軽めの本」。チェーホフも、僕には軽く感じられた。10冊位あるけど、また読み返したいとは思えない。三島、川端、「小説の神様」といわれたらしい志賀直哉も、よくわからない。
好みの問題なんだろうな。読んでいて、入ってこない。表面を、上滑りしていく感じ… チェーホフは、ほんとに「暇つぶし」のために読んだ。よくつぶせたから、面白かったんだとは思う。
うん、「軽め」より「重め」?、「入ってきた」本のことを書く方が楽しい。
でも、今までに結構書いたから、もう書かない。
今漠然と考えているのは、「荘子」とキルケゴールを混ぜ合わしたようなもの、…そこにはきっとブッダ、ソクラテス、モンテーニュも入ってくる… ニーチェも… 椎名麟三、山川方夫もだ、そんな書き方、自分の中に入ってきた人達が、どんな形でかに、きっと自然に(偶然を発祥にして必然に)表されていく、発動していく、そういうふうに書けたらいいなと思う。
それでどうなるかなんて、知ったこっちゃない。
流れ、自分の中の流れが、どこへ向かっていくのか、自分でもわからない。いつも朝、パソコンに向かう時、何も書くことがない。でも、何か書き出すと、知らず知らずのうちに、つながって、一つ終わると、また一つ始まって、自分でもよく分からない。
あ、オレのココロ?、こんなん書こうとしてたんだ、と、気づくことができれば万々歳だ。
「軽い本」…そいつは、本じゃなくて、オレ自身だったな、と気づいたよ。