モノについて

 私がモノについてあまり書きたくないのは、物はなくなるものだからだ。

 当世、今流行っているもの、商品、人間もそうかもしれない。形あるものは、必ずなくなる。

 それより、大切なもの(言葉は同じだが、同じモノではない)があるような気がしてならない。

 こんなことを書いていても、読者(がいればの話だが)と私の接点は、モノではなく、ココロのように思う。ワタシの取り扱うのはココロ。ココロでございます、どーん! か。

 文字の形は、それをつなぐきっかけに過ぎない。ブログの形態もそうだ。形に、私が当てはめているだけである。

 このココロ、形はないのに、当てはめられると形なる。特に文を書く時はひとりだし、私が私という形にはめること、この作業をすることになる。

 相手がいれば、また話は違う。相手に向かって、私の形をはめる。だが書く作業は、全く私だけの世界なのだ。誰と共有しているわけでもない。

 だが、きっと私は共有されることを望んでいる。だからこんな七面倒くさい、あり過ぎる文字から一つ一つを選んで、なんだか形にして… 公開しているのだと思う。

 といって、正確に、理解してほしい、わかってほしい、というような要求はない。

 一緒に仕事をしている人には、わかってほしいと思う。こういう考えで、こういう目的で、ぼくはこうしました・こうします、ということを、一緒に仕事をする上で理解されようとしたい。でないと、あまりいい仕事ができないと思うから。

 でも自分のことを書く場合、何しろ私はひとりだし、読む人もきっとひとりだろう。

 特に「私」をどう理解されようが、どう考え、どう想像されようが、これはもう治外法権というかどうぞご自由に、としか考えられない。

 あ、この文章はこう解釈されたか、と思えば、その文章を見直し、言葉足らずだったのか言葉が多すぎたのか、自分の言いたいことがどうして伝わらなかったのかを吟味する。もっとも、何のコメントも来ないから、「言いっ放し」だが。

 でもほんとにどう解釈されようが、それはもうどうしようもないことだと思う。こちらとしては、このままであることしかできないだろう。このままであって、自然にこのままであって、これを見続ける人があれば、そのうち何か、伝わるかもしれない。

 何が伝わろうが、それはやっぱり仕方のないことだ。また、「続ける」必要もなければ、要するに読まれ続けられなければ、ハイそれまでよの話である。

 こう書いていると、じつに、書いている私は能動的だが、書かれた文章は受動的である。当たり前だ。文章が勝手に、「違うよ、こう読んでよ」と読者が誤読したら訂正してくれるわけもない。とすると、結局私の筆力の問題になってくるのかもしれないが…。きっと、そうだろう。そうなのだ。

 ああ、モノについてだった。

 モノはなくなる。言葉もなくなる。でも、それをつくる、形どる、そのモノをつくらせるココロは、と言いたいのだった。

 そのココロの正体は? これまた、それを見る人に委ねられるのかもしれない。だが、これを見る人、には、これ自体であるような「私」自身も含まれるのだった。