でもこれはほんとに微妙な問題で、「思い込み」という恐ろしい罠の穴に落ちかねない。
「こうしたい」と本気で思ったら、ダイモーンの入る余地などないだろう。
それでも、「やめろ」という声が聞こえるということは、よほどソクラテス、ニュートラルな精神の状態であっただろう。でなければ、「真理」に辿り着くまでの相手との対話をあんなにも続けられなかっただろう。
ニュートラルであること。これは一種の「無我」の状態だ。ブッダの説いた「無我」に通じるものがある。
そう、ブッダとソクラテス。この二人には、どうにもソソられる。考えただけで、想像しただけで、ニヤついてしまう。
野蛮な性質だったというソクラテスは、自分の力でそれを矯正した。「学びは自分の中にある」をそのままに。
ブッダも、一人一人の人間の中に可能性があることを説いた。集団ではない。一人の中に、自分の中に。
キルケゴールは「人が人にできることは、『自分はこういう人間なんだ』と気づくこと、自分に気づくこと──」と云った。
人との関係、この世の関係は、「自分に気づくきっかけ」と。
この「気づき」から、自分は変化する。良くも悪くも。
ソクラテスは、「良く」自分を正した。
思うに、人、あるていど生きれば、自分はこういう人間なんだと気づく。気づくというより、わかる。わからされる。思い知らされる。
そこで、生き方として「あきらめ」られるかどうか…
まわりとくらべて、自分を捻じ曲げてしまわないように、やっていきたいものだ。
みんながこうしているからといって、自分までそうしなくてもいいんだ、と。
しかしこれも微妙だ。どこまでもツッパッて、反抗するための反抗ではいけない。
なるべく、合わせようとする。それでも、合わせることができない。そこでやっと、これはダイモーンの「声」なんだ、と。
そんな自分の知らない自分に、自分は教えられて行くんだと思う。
生き方を。自分の生き方、自分から始まる、生き方を。