訳者の森三樹三郎さんによれば、「この篇は荘子の生命ともいえるもの」だそうだ。
確かに、いちばん好きな篇かもしれない。万物斉同。この世には、差別など無い。
真理のような思想。物の、見方。
事実、そうなのだと思う。この世に、差別なんか無い。まことの、ことわりと思う。──
南郭子綦は机にもたれて座り、天を仰いで大きな息を吐き、呆然として、いっさいの相手の存在を忘れ去っているかのようであった。
顔成子游は、師の前に立ち、かしこまっていたが、このありさまを見て言った。
「一体、どうなされたのでしょうか。どうすれば、このように身体を枯れ木そっくりにし、心をまるで冷え切った灰のようにすることができるのでしょうか。
今机にもたれかかっている先生は、先ほどもたれかかっていた先生と、まるで違っているように思われます」
すると、子綦は口を開いた。
「偃よ、お前も見どころがあるよ。そのような質問をするのだからな。今、わしは我を忘れていたのだ。それがお前に分かったのか。
だが、お前は人の奏でる音楽を聞いたことがあるにしても、地の奏でる音楽を聞いたことはあるまい。
また、地の奏でる音楽を聞いたことがあるにしても、天の奏でる音楽は聞いたことはあるまい。
── そうそう、これなんだよ。枯れ木のように。冷え切った灰のように。
生きながら死んでいるようで、死にながらも生きているようである。いや、しっかり、そこに座って、生きている。机にもたれて。我を忘れて。
しっかり、でもない。何でもない。ただそこにいる。「他」もなく「自」もない。
ただそこに、いるだけ。… そこもここも、たぶん彼にはなく。